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- 挑戦の決断(21) 海軍を創設する(勝海舟)
咸臨丸、太平洋を渡る
1860年(万延元年)3月17日、勝海舟が艦長を務める幕府の軍艦「咸臨丸」は、米国西海岸のサンフランシスコに入港した。幕府がオランダから購入した長さ50メートル、約300トンの小さな機帆船は日本人乗組員96人の操船で、品川出港から43日で太平洋を超えた。米国軍艦で米国に派遣された幕府の遣米使節団の護衛船に過ぎなかったが、現地の新聞、民衆は、使節団に劣らぬ扱いで日本人のフロンティア精神をたたえ大歓迎した。日本海軍の本格的な幕開けとなる。
一介の旗本だった勝が日本海軍創設に関わったのは、一つの意見書がきっかけである。攘夷論渦巻く中、独断で開国を推進することに苦心していた幕府は、諸大名、幕臣、町人まで身分を問わず広く海防方策を募った。多くの意見が、主要な海岸に台場(砲台)を築いて国を守れというものであったが、勝のそれは違った。
〈海軍を充実させ、兵学校を設けて海外の国防図書を翻訳し人材を育てる〉
これが老中・阿部正弘の目にとまり、勝を長崎に派遣し、オランダ人教官から操船、気象・天文学から海軍の運用術までを学ばせることになる。1855年、勝33歳のことだった。
みるみる軍艦の運用に通じ、教官として後進を育てる。それから5年、それまで海と無縁だった男は太平洋横断を成し遂げた。
広い視野での国防論
勝が江戸で蘭学を学んでいたことも役に立った。語学だけではなく、洋書に接することで欧米の科学技術の発展を心得ていた。西欧の合理的精神を身につけていた。費用対効果についても心を砕いた。
例えば、将軍が江戸から京都・大坂を行き来するには、行列を組んでの道筋に莫大な費用がかかる。勝はそれを海路、軍艦で移動すれば金はかからないと具申する。
「日本は海国であるから国防のためには海軍を起こさねばならぬ。しかして海軍を起こすには将軍などが率先してこれを奨励してくださらなくてはいけない。将軍のご上洛には諸藩の軍艦を従えて、海路よりご出発あるがよろしかろう」
幕閣は、諸藩に協力を依頼するなど幕府の威信を損なうとして強く抵抗したが、勝は咸臨丸渡米から3年後の文久3年、将軍家茂(いえもち)の上洛でそれを決行している。越前、薩摩、佐賀など各藩から保有する西洋式軍艦を徴用し、幕府所有の5隻と合わせて12隻の艦隊を組んで西上した。
海軍の創設、整備には莫大な資金が要る。各藩の協力の上に〈オール日本〉で国防に取り組む必要があることを説き、実行してみせたのである。
また、京都では志士たちが観念的な攘夷論を振り回し、朝廷を振り回していた。攘夷党の公卿として有名な姉小路公知(あねこうじ・きんとも)は、夷狄から京都を防備するために山崎口と大坂湾に砲台を築く必要があると主張していた。大阪へ視察に出向いた卿を勝は案内し、「費用のかかるお台場建設より、機動的な海軍整備と軍港の建設が必要だ」と説き、朝廷の世論を変えた。そして海の深い神戸の地に海軍操練所を設けることになる。
外国船など打ち払えと威勢がいいだけの長州藩は、四国艦隊の砲撃を受けてたじたじとなっていたが、勝には現実が見えていた。実行を伴わない空想的攘夷を勝は嫌った。
門閥を問わず人を育てる
勝には時代と現実が見えていた。ペリー来航以来の国難に際して開国が必要だということでは幕府と意見を一つにしていたが、欧米列強の砲艦外交でアジア各国が植民地となる危機感も強く持っている。
オール日本での国防の先に、〈オールアジア〉での国防も見据えている。のちに公開された『海舟秘録』には、当時の構想としてこうある。
〈海軍を拡張し、営所(基地)を兵庫(神戸)、対馬に設け、其の一を朝鮮に置き、ついに支那に及ぼし、(日中朝の)三国合従連衡して西洋諸国に抗すべし〉
ちまちました志士たちの観念的攘夷論と比べてスケールの差は歴然である。
神戸の海軍操練所で勝は海軍を担う人材の育成に全力を上げた。幕府、各藩から有力者の子弟も送り込まれたが、彼は生徒の門閥は「旧態依然」として無視した。かえって、薩摩、土佐などの浪士たちを人物主義で抱え込んだ。のちに海援隊を起こす土佐脱藩浪士の坂本龍馬も神戸操練所の塾頭として勝に傾倒した一人だ。
これが幕閣たちの間で、「ならず者を抱えて勝は謀反でも起こすつもりか」と反発を呼び、勝は江戸に呼び戻され蟄居を命じられる。勝に教えを受けた浪士たちから、のちの帝国海軍の人材が生まれていく。
時代が明治維新を先取りした勝海舟という一人の男に追いつかぬまま、幕府は滅びることになる。
勝の『氷川清話』は、べらんめぇの平易な話し口の中に本音の幕末維新史が散りばめられた名著である。ぜひご一読を。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『氷川清話』勝海舟談 江藤淳、松浦玲編 講談社学術文庫
『勝海舟』松浦玲著 中公新書