「分かるというのは出来るということだ!」
師匠である藤平光一が弟子に言い続けていたことです。一般的には「分かりました」という言葉は日常生活で頻繁に用いますが、修行においては迂闊に使うと大変なことになります。私も内弟子修行が始まった直後は、「簡単に分かったと言うな」と厳しく注意を受けたのを覚えています。
そもそも内弟子修行は心身統一合氣道を「身につける」ためにしているわけで、知識や情報を得ただけでは「分かった」といえるはずがありません。しかし、修行を始めるときにそれを理解している人はわずかでした。
ひとことで「分かる」といっても、理解の深さによって段階があります。「分かった」と感じる基準がそれぞれの人にあるのです。
最も浅い理解は、知識や情報を得ただけで「分かった」と感じることです。インターネットが普及して、私たちが触れる情報量は圧倒的に多くなりました。その中から自分が必要としている情報を取るわけですが、現代においてそのスキルが重要なのはいうまでもありません。
他方で、「身につける」ことにおいては、時代の変化に関係なく、そのプロセスは変わりません。体験し・体感し・会得する。そして、会得したことをいつでも・何度でも再現出来るように訓練する。知識や情報を得ただけで「分かった」と感じる人は、それ以上に求めることはありませんので、この基準の「分かった」では全く身につかないのです。
次に浅い理解は、一度出来ただけで「分かった」と感じることです。これでも理解の深さは十分とは言えません。その一度は偶然かもしれませんし、条件や環境が変わったら全く出来ないかもしれません。一度だけ出来ただけで「分かった」と感じる人も、それ以上に求めることはないので、ほとんど身につきません。
深い理解は、いつでも・何度でも再現出来る様になって「分かった」と感じることです。この段階ではじめて「身についた」と言えます。ただ、私は指導者ですので、この段階でもまだ「分かった」ということは許されないのです。
最も深い理解は、自分に出来ることを人にも出来るように導けて「分かった」と感じることです。自分だけ出来るのでは、指導者としての価値がありません。人に伝えるには、自分のなかで身につけたことが整理されていなければいけません。自分では出来るのに人には伝えられない状態は、自分の中で整理がされていない、あるいは整理が十分でないときに生じます。
藤平光一が求める「分かった」の基準は最も深い理解にありました。したがって、知識や情報を得ただけで分かった顔をする弟子に大変厳しかったのです。
「分かった」という基準が低い人は、何事においても簡単に「分かった」と感じるので、それ以上深く掘り下げたり、身につくまで訓練したりしません。知的には優れているはずなのに、何一つ身につかない人は最たる例です。「分かった」という基準が高い人は、常に「分からない」というフラストレーションを抱えています。「分かりたい」という渇望と、「分からない」ことへの忍耐によって、分かる努力を継続し、最後には深い理解を得ます。
この基準を最初に学んだことは、その後の私の人生を大きく変えました。私自身も、今となっては簡単に「分かった」という言葉を発することはなくなりました。そして、育成している若い指導者たちに「簡単に分かったといわないように」と、自分が受けた教育をそのまましています。
私はこれまでも数多くの人材を育成して来ましたが、この「分かった」の基準に関しては、効果的に教育する術を今も知りません。「分かっている」と思う人には、それ以上何も入っていかないからです。唯一の方法は、毎日言い続けることによって、「分かった」の奥行きを潜在意識に入れることだけです。
ただ、これにはとてつもない時間がかかりますから、私たちの世界では許されても、企業における教育では許されないかもしれません。採用の時点で、その人が持つ「分かった」の基準を見極めるのが確実です。
一見すると、「分かりました」と愛想良く言う人が良く見えます。しかし、それは「分かった」の基準が低いだけの可能性があります。すぐに「分かりました」と言わない人は、無愛想に見えても、「分かりました」の基準が高いのかもしれません。
さて、今回の内容は「分かりました」でしょうか。