こんにちは、いかがお過ごしですか。春本番です。やわらかな季節になりますね。
先日、自宅兼仕事場の引越しをして、現在は京都市伏見区内で暮らしています。京都の伏見は日本有数の酒どころである他、幕末の鳥羽伏見の戦いの舞台としても知られています。少し歩くと、幕末の志士・坂本龍馬が襲撃された船宿・寺田屋、伏見奉行所跡や、薩摩島津藩や長州藩の屋敷跡があります。
そこで今回は、趣向を少し変えて坂本龍馬の手紙の魅力の一端をご紹介します。
型にはまらない、豪胆さ
わたしは若い頃に読んだ司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響で、少しだけ坂本龍馬にかぶれた時期がありました。
龍馬はわずか33年の生涯の間、確認されているだけでも130通を超える手紙を残しています。その多くが遠く離れた土佐にいる姉(乙女さん)に宛ててしたためられたものと言いますから、二人の心のつながりが推しはかれます。
また、当時の時世にあっては迂闊に政治経済の話が書けず、読んだらすぐ燃やしてしまうなど、手紙に書いて残せない事情もありました。それが、女性宛て、しかも心を許す姉にならば、さほど人の目を気にせず胸の内をつづれたのでしょう。
龍馬の手紙はその多くがひらがなやカタカナを使い、土佐弁で語りかけるかのように書かれています。ときにはイラストや、あえて朱赤で目立たせている箇所、誤字を塗りつぶす箇所が見受けられるなど、文字はほとんど読めずとも、その見た目のレイアウトから、大胆さやおおらかさが十二分に感じ取れます。
とりわけユニークなのは、書き出しです。
この手紙には、とても大事なことばかり書きましたので、
ベチャベチャとしゃべり好きな人や、
「ほほう、ほほう」「いやだいやだ」と噂話をする人には
けして見せてはいけないぞよ。
「日本を今一度せんたくいたし申候」という名文句で有名な、通称「日本の洗濯」と呼ばれる手紙の冒頭には、以上の数行が前置きとして、あえて小さな文字で但し書きのようにしたためられています。
この手紙は龍馬が亡くなる4年ほど前の29歳のときに書かれました。原本の(紙の)長さは3メートルにも及ぶといいますから、よほど燃えたぎるものがあったのでしょう。手紙を書くことで思考を整理し、感情をコントロールしていたのだと想像します。
妻を認めてほしいと、姉に懇願
伏見にある船宿・寺田屋から乙女姉さんに宛てて出された手紙に、妻である「お龍(りょう)さん」を紹介するものがあります。
男勝りの性格で、龍馬が危険な目に遭ったときにうまく助けてくれたことや、その一方で月琴をたしなむ風流な面があること、乙女姉さんのことを実の姉のように慕っていることなどが書かれています。続けて、どうかそんな女性を妻として認めてほしい、その証しとして乙女姉さんの着物か帯を送ってほしいと懇願しているのです。
なんとも素直といいますか、乙女姉さんの前では子どものように甘えられるのですね。
こちらも原本の(紙の)長さは3メートルにも及ぶといいますから、まさにものすごいエネルギーで筆を動かしていたのでしょう。
手紙を送る費用はどこから…?
ところで、手紙魔といって差支えないほど魅力的な手紙を多く残している龍馬ですが、それらの手紙を送る費用は一体いかほどだったのでしょうか。
現在の日本の郵便制度は明治初期に生まれたもので、江戸時代は一部の活動家や豪商をのぞき、一般の人はほとんど手紙を書きませんでした。つまり、必要に迫られて送るか、よほど好きな人にしか書かれなかったのです。おのずと運搬費用は驚くほど高額でした。
飛脚は馬や人力によってリレー式で目的地まで手紙を届けます。今のように高速道路や新幹線のなかった時代に、川を渡り、谷を越え、山道を登り下り、悪天候でも届けるのです。
詳細な費用は少し文献を調べたもののうまく算出できませんでしたが、今のお金に換算すると、遠く離れた土地に一通送るのも決して数万円単位ではなく、数十万、いえ百ン十万円という大金であったようです。
では、龍馬はこうした費用をどこから捻出していたのでしょう…? 藩のお金や、人から借りて捻出していたのでしょうか…?
興味が尽きない話です。いずれ何かの折に続編をご紹介できたらいいなと思います。
参考文献
『これなら読める 龍馬からの手紙』(齋藤孝著、小学館刊)
『みんなの郵便文化史』(小林正義著、にじゅうに刊)
『竜馬がゆく』(司馬遼太郎著、文藝春秋刊)