きっかけはニクソン就任前の外交論文
北京に毛沢東の社会主義政権が登場して以来、激しく対立をしてきた中国との和解を水面下で模索する米国のニクソン政権だったが、米中間に対話の公式チャンネルはない。中国側の本音を探る必要があった。中ソ対立の危機からの脱却を急ぐ中国も事情は同じだ。果たして米国は本気なのか。
先に動きを見せたのは中国だった。きっかけは、ニクソンが大統領選で当選する前年の1967年にまかれていた。ニクソンは、米国の権威ある外交評論誌『フォーリン・アフェアーズ』で対中宥和論を発表した。
「中国のような巨大な領土と人口をもつ国を国際社会で孤立させておくことはできない」
まだ中国では毛沢東が発動した文化大革命が展開されており、米国の対中世論は硬化したままだったので、タカ派の総帥であるニクソンの主張を、国際社会で額面通り受け取る向きは少なかった。
この論文に秘められたニクソンの和解サインに注目したのは、北京だった。1968年11月の大統領選挙でニクソンが勝利すると、中国共産党主席の毛沢東と首相の周恩来は、米国の本気度を探るべく、論文の詳細な検討を党機関に指示するとともに、在ポーランドの大使館を通じて米国との接触を試みている。さらにニクソンが「対話の時代」の開幕を宣言した就任演説も毛沢東の指示で党機関誌『人民日報』で異例の全文掲載に踏み切り、米国に「脈あり」のサインを送り返す。
中国の現実外交
この時期、毛沢東は、国境紛争を抱えるソ連との間での戦争勃発におびえていた。一方で、自ら発動した文化大革命の余波で国内の権力闘争に火がつき、権力基盤を脅かしていた。戦略家の毛沢東は、米国を味方に引きつけることでソ連の侵略を抑え込み、自らの権力を安定させようと考える。中国には古代から「合従連衡」の外交伝統がある。敵の敵は味方という現実外交路線だ。
また、その現実外交を実務的に肉付けしてゆく周恩来には、日本、フランス留学で培われたグローバルは視点がある。毛沢東と周恩来の間には、社会主義路線を巡って、とくに経済運営に関して温度差がある。党内の権力闘争で周恩来は敵が多い。こうした中国の国内事情を米国のニクソン、キッシンジャーのコンビがどこまで理解していたかは不明だが。結果的に、周恩来が担った米中和解作業の成功が、周恩来を党内抗争の嵐から守り、その死後も、改革開放勢力の鄧小平の復活による経済発展へと中国を導くことになる。米国もアジア情勢のカギを握る中国との関係の安定化を通じて、長年の懸案であったベトナム戦争の終結と撤兵、ソ連とのデタント進展という果実を手に入れることができた。
脱イデオロギーと、地政学的パワーバランスによる外交戦略という点で利害の一致を見た米中和解は、時代の先取りの見事な例となる。
周到な準備と先手奪取が交渉のかぎ
交渉ごとにおいては、立場、イデオロギーは違えども同じ土俵で対等に話し合える相手を得て信頼を築くことが何より重要だ。キッシンジャーと周恩来はまさにそれを担うに足る二人だった。その交渉の丁々発止ぶりは次回見ることにするが、今回もキッシンジャーの金言で締めくくろう。
「政策として成功するには、少なくとも三つの要因が備わっていなければならない。現実的な選択を下すために慎重な分析をすること、周到な準備をすること、先手をとることである。危機に処して消極的だと、ますます手も足も出ないようになる。場当たり的な反応を強いられ、そうこうしているうちに、最悪の立場に追い込まれてしまう。これと対照的に先手をとっている側は、相手にあれこれ思案させて、そのエネルギーを消耗させてしまうことができる。そして相手側はいつも最悪の事態を想定するものだから、ちょっとした動きをしても、びくつかせる効果は大きい。(中略)躊躇したり、段階主義をとったりすると、相手はそれに対応する行動に出て、どこまでやる気なのかを試してみようとする」。目標を決めたら果断に行動せよということだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『キッシンジャー秘録 3北京へ飛ぶ』ヘンリー・キッシンジャー著、桃井真監修 小学館
『キッシンジャー回想録 中国(上、下)』ヘンリー・キッシンジャー著、塚越敏彦ら訳 岩波現代文庫
『ニクソンとキッシンジャー』大嶽秀夫著 中公新書