【意味】
主君が自らの過ちを知ろうとすれば、必ず忠臣の諫言(目上に対する忠告)に頼らなければならない。もし主君が完全無欠の賢人振りを示せば、諫言も出ないから過ちも正せない。
【解説】
「貞観政要」の言葉です。
人間にはどこか「腑抜けたところ」があった方が親しみ易いといわれます。芝居や落語でも腑抜の丁稚や若旦那が登場しますが、忠告役の実直な番頭さんよりもはるかに人気があります。観客も腑抜けの部分に親しみを感じ、どこかに優越感も感じられることが、人気の秘密なのかもしれません。これを「腑抜けの魅力」といいます。
一般に忠告は、親から子へ、先生から生徒へ、上司から部下へとなりますが、立場の違いもあり上から下への忠告は比較的スムーズにいきます。しかしこれが逆に下から上にとなりますと、封建社会の主従関係であれば命懸けであり、民主主義の現代でもかなりの勇気が必要になります。だからといって勇気ある忠告がなければ、帝や社長の誤りが是正されませんから、組織崩壊の道を歩みかねません。
中国の名著は、後世の子孫たちが前言往行(古人の言行)を学ぶための教科書ですから、「貞観政要」にも諫言の必要性やその留意点が多く取り上げられています。掲句もその一つですが、その趣旨は「臣下が意見を言える組織雰囲気の醸成」ということです。
理想的な組織とは、“トップが頑張り、それを手本に部下も頑張れる関係”となります。しかしトップが余りにも完全無欠に振る舞いますと、部下にとっては近寄りがたい雲上人の存在になり、いつしか諫言よりも賞賛の対象となってしまいます。こうなれば優れたトップも、日々耳触りの良い言葉に囲まれますから、自然に緩みが生じます。
「甘言は蜜の如く甘く、べとべとしたもの」といわれますが、ゴマすり社員が増え、中元品や歳暮品が社内で飛び交うようになれば、かなりの危険水域の組織といえます。
威厳誇示も大事ですが、トップは時には「腑抜けの弱さ」をさらけ出し、部下がフォローしたくなるような雰囲気創りが必要です。そうなれば、お互いが弱さを補い合う組織となり、部下は堂々と自分の意見を言えるようになります。
正統的な組織論では、トップの権威指示論や部下らの諫言論となりますが、これではどうしても剛直感が伴い、気弱な社員は萎縮したままになってしまいます。お互いがその弱さを上手にさらけ出し、不完全な人間同士の組織であることを全員が認識共有することです。(参考:“柔弱謙下”の思想を説く「老子」を読むと、この辺の呼吸が理解できます)
ある年の新人研修の終了後の感想文に、次のようなものがありました。
「研修終了後の打ち上げに指導役の先輩社員と全員でカラオケに行きました。イザ先輩の順番になると『俺、超オンチだからパス。頼む!』と猫なで声。昼間の堂々たる態度との落差を感じて、この時始めて私も程々にやっていけるのではという自信が湧いてきました」と。