【意味】
上に立つ者の学問は、知(知恵)・仁(思いやり)・勇(決断力)の三つを学ぶことである。
【解説】
論語の別な句として「知者は惑わず。仁者は憂えず。勇者は懼れず」と いう似た句があります。
理に通じている知者は、あれこれ迷うことなく、
欲のない仁者は、くよくよ心配することがなく、
肝っ玉が座っている勇者は、びくびく恐れることがない・・・という意味です。
このように説かれても、日々の生活の中で大いに迷い、心配し、恐れている自分をつぶさに観察すると、
孔子のいう理想的な賢者と自分が大きくかけ離れていることを、いやでも思い知らされます。
しかし自信を無くす必要はありません。
古代の仏教経典には、「愚者が『私は愚かだ』と知れば賢者である」と説かれています。
賢者・愚者のランクは相対的ですが、この言葉の裏にはもう一段下の層がいることを暗示しています。
それは「自分を賢者と誤認する愚者」であります。
いつの時代にもこの種の愚者が多いから、その反語としてのこの経典の教えがあるのかもしれません。
大切なのは、賢者の問題を自分とかけ離れたものと考えないことです。
賢者も元は愚者です。多くの愚者が生活を工夫し自分を高めて賢者になったのです。
この工夫を『志』といいますが、志さえあれば愚者にも知(知恵)・仁(思いやり)・勇(決断力)が備わるのです。
曹洞宗第二祖・懐弉(えじょう)禅師によって著わされた『正法眼蔵随聞記』の中に、
師匠道元禅師の言葉として、次のような表現があります。
玉は琢磨によりて器となり、人は練磨によりて仁(ひと)となる。
何れの玉か初めより光ある。
誰人(たれびと)か初心より利なる。
必ず磨くべし、すべからく練るべし。
自ら卑下して学道をゆるくすることなかれ。(正法眼蔵随聞記)
原石が磨かれて輝く宝石となるように、人間も修行により人物器量となる。
最初から輝く宝石がないように、最初から人物器量の者もいない。原石も人間も磨くべし。
自ら様々な言い訳(卑下)をして修行を緩めてはいけない。
昔の封建社会の指導者とならば君主ですが、現代の経済社会の指導者は企業のトップや幹部です。
に もかかわらず、自分は高齢社長だから、自分は年齢も若い社長だから、自分の会社は小さな会社だから・・・
などと様々な都合の良い言い訳を述べて、指導者の勉強(掲句=人主の学)から逃れようとする傾向があります。
君主がいい加減な人物であれば臣下・人民が困ったように、
社長が人物器量の鍛錬を怠るようでは社員・取引先・株主に迷惑が及びます。
だから道元禅師の言われるように、自ら卑下して学道をゆるくしてはいけません。
『100万人の心の緑化作戦』の一環として人間学読書会を主宰し21年になります。
この間多くの社長の学びに接してきましたが、「損得のための学び」ではなく、
「現代の指導者としての学び」をする人が少ないのが残念です。