【意味】
天下国家の安泰を望むならば、まず帝自身からその身を正すべきである。
【解説】
「貞観政要」からの言葉です。第93講の「先憂後楽」の句と共に、為政者が守らなければならない代表的な“自制の句”の一つと云われています。
古の帝王学の書物とは、各時代の皇帝や宰相たちが如何に国家を治めたかの観点から書かれたもので、その狙いは後代の為政者の手本にするためのものです。
企業も王朝同様の組織ですから、帝王が臣下と共に自らを律し国家を統治したことは、社長が幹部と共に企業の経営に精を出すことに通じます。それ故に掲句の「天下国家」を「我が社」に置き換えれば、「会社を安定したいと望むなら、先ず社長がその身を正すべし」となります。
貞観政要の別の言葉にも、「その身を傷(ヤブ)る者は、外物に在らず。皆、嗜欲(シヨク)に由りて、もってその禍を成す」とあります。自分を崩壊させるものは外的要因ではなく、自分の身から出る欲望(嗜欲)によるものだということです。
トップになれば自らの権限も大きくなり、欲望の赴くままに振る舞う危険も大きくなります。今まで多くのトップが放蕩三昧により組織を崩壊させ、自らの身も持ち崩してきました。だから“我が身”を正したうえで経営に携わりなさいというのが、掲句の説くところです。
それではまず“正すべき我が身”とは、何であるかを考えてみます。
天地自然の中の我が身はロボットではなく、自然界の他の種族の微粒子同様に人間種族の一匹ですから、これを「自然界の一微粒子」と云います。
またもう少し小さな社会での我が身を観ますと、縦に観れば700万年続く人類種族を支える命の一匹であり、横に観れば同時期の地球上70億人の人間種族を形成する一匹になります。これを「縦横人間社会の一微粒子」といいます。
自然社会や人間社会では、誰もが単なる一微粒子の存在です。大唐国の帝といえども、神には成れない生き物の一匹であり、百年の寿命も得難い石火光中の人生を送る一匹であり、一人では生きていけない社会の中の一匹です。掲句は太宗の言葉ですが、帝としての責任の重さからその身を慎めという道徳的な生き方というよりも、人間は誰でも「自然界の一微粒子の謙虚さと責任を失うな」というもう少し大きな戒めと捉えたいものです。
では、なぜ贅沢に流れ、豪華な物に目が眩むのか?
一言で云えば、自分に自信が無いから分不相応の豪華な物(時計・バック・自動車・自宅など)を身に付け、その虚勢で「膨張した偽物の自分」でごまかそうとしているのです。
人間学を学び自分に自信が持てるようになれば、贅沢に関する物欲は流行病のようにたちどころに消えます。そればかりかキラキラした物を身に付けている自分が恥ずかしくなります。「如何なるレベルで生きるか?」が人間学のテーマですから、これを学べば生き方の原点が正されますから、人生学や社長学ばかりでなく、贅沢病・金欠病などの特効薬にもなるのです。