■間欠泉が圧巻の「地獄」
湯田中渋温泉郷は、長野県の山あいに点在する9つの温泉地の総称だ。大小100軒ほどの旅館やホテルを擁し、共同浴場の数は別府温泉に次ぐ全国第2位という「温泉天国」である。
そんな温泉天国に「地獄」と呼ばれる温泉がある。温泉郷の中でもっとも山奥に位置し、秘湯感が漂う地獄谷温泉だ。
細い林道を抜けた先にある有料駐車場に車を停めて、舗装されていない薄暗い山道を10分ほど歩くと、一気に景色が開けた。そこが地獄谷である。
3階建ての古びた木造の建物は、地獄谷温泉の一軒宿「後楽館」。鄙びた湯治宿の趣は、なんだか懐かしい気分にさせてくれる。1日1組または2組限定の静かな宿である(日帰り入浴も可)。
宿のすぐ真横を流れる横湯川の対岸には、プシューッという音を立てながら温泉が勢いよく噴き出しているのが見える。国の天然記念物に指定されている間欠泉「渋の地獄谷噴泉」だ。
高さは20メートル近くあるだろうか。近くまで寄ってみると、白煙がもくもくと立ちのぼっていてなかなかの迫力だ。はるか昔、この地を訪れた人は「噴泉」を見て、自然の神秘的なパワーに畏れおののき、「地獄谷」と名づけたのだろう。
■温泉に入浴する「スノーモンキー」
後楽館の玄関の近くまで行ったとき、頭上でガタガタッという音がした。見上げると、ニホンザルが宿の屋根の上をのしのしと歩いていた。実は、地獄谷温泉は、野生のニホンザルが姿を現すことで有名なのだ。
宿から少し歩いたところにある「地獄谷野猿公苑」(入園料800円)では、露天風呂につかるニホンザルの姿を観察できる。
そんなめずらしい姿を見ようと、日本だけでなく、世界中から観光客が訪れる。筆者が訪れたときも、20人ほどの欧米からの観光客が、サルが入浴する湯船をぐるりと取り囲んで写真撮影する光景を目の当たりにした。
「まるで芸能人の記者会見のようだ」と、サルの入浴よりも見物人の熱狂ぶりに驚いてしまった。なお、冬季、温泉につかる姿から「スノーモンキー」という愛称で人気を集めている。
さて、後楽館の名物は混浴の露天風呂(女性専用露天風呂もあり)。眼下には横湯川が流れ、対岸には「噴泉」を望むことができる。湯船は素朴な石づくりで、柵などの目隠しが何もない開放的なロケーション。野猿公苑に行く人や噴泉を見学している人から丸見えだが、透明でくせのない温泉のぬくもりに包まれると、恥ずかしさよりも気持ちよさのほうが勝ってしまう。
■露天風呂に姿を見せるニホンザル
噴泉を眺めながら露天風呂に1人でボーッとつかっていると、湯船のふちにニホンザルの手がかかるのが見えた。ひょっこりと顔をのぞかせたサルと目が合ったとき、あまりにもびっくりして、身動きひとつできずに固まってしまった。
このあたりのニホンザルは人間慣れしているとはいえ、野生の生き物である。何かの拍子に襲ってくるかもしれない。服を着ているときは恐怖心もあまり感じないが、入浴中は無防備な裸姿。同じ裸同士なら襲われても勝てる気がしない。恐怖が先に立ち、「頼むからあっちへ行ってくれ」と心の中で叫んでいた。
そんな筆者の気持ちを知ってか知らずか、サルは湯船のふちに腰かけて、湯船に手を突っ込んだりして遊んでいる。湯加減を確かめているような愛嬌のある姿を見ていたら、だんだんと恐怖心も薄れ、サルと一緒に入浴したいという気持ちのほうが強くなってきた。サルと混浴できるチャンスはめったにない。
ところが、他の入浴客が扉を閉めた音にびっくりしたのだろうか、サルは山の中へと走って逃げてしまった。「ニホンザルとの混浴」という筆者の夢は、はかなく散ったのだった。