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吉田松陰の驚異の情報収集力と教育法
~2015年大河ドラマ『花燃ゆ』に学ぶ維新回天の原動力~
2015年1月4日から、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』が放送される。
舞台は幕末の長州(山口県)、江戸をはじめ全国各地にわたる。
物語の主役は、吉田松陰の末妹で、後に久坂玄瑞の妻となり、玄瑞の死後は
松陰の盟友・小田村伊之助(後の楫取素彦=かとりもとひこ)と再婚する
杉文(すぎふみ、後の楫取美和子)である。
兄である松陰と、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤俊輔、桂小五郎、品川弥二郎など
松下村塾の弟子たちとの人間模様を織り交ぜながら、幕末から明治維新へ向けた激動の時代が描かれる。
『花燃ゆ』のホームページには、以下のように番組の趣旨が紹介されている。
◆明治維新はこの家族から始まった
明治維新で活躍した志士を育てた吉田松陰。その松陰を育てたのが、杉家の家族だった。
松陰の実家である杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす大家族で、
多い時には11人が小さな家に同居していた。
そして、杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿ら
多くの若者たちが松陰のもとで学び、日夜、議論を戦わせていた。
幕末の動乱が激しさを増す中で、松陰の家族、門弟たちは様々な困難に直面して行く。
しかし、松陰の教えを胸に抱いて、困難にめげず、志を持って常に前を向いて力強く生き抜く。
「学は人たる所以を学ぶなり」(学問とは、人間とは何かを学ぶものだ)
「志を立ててもって万事の源となす」(志をたてることが、すべての源となる)
「至誠にして動かざるは未だこれ有らざるなり」(誠を尽くせば動かすことができないものはない)
など、松陰が門弟たちに語った言葉は、今も私たちの胸に突き刺さる力を持っている。
杉家の四女の文(ふみ)を中心に、ともに困難を乗り越えて行った杉家の強い絆と、
松陰の志を継いで行った若者たちの青春群像をダイナミックなスケールで描く。
『花燃ゆ』は、「幕末のホームドラマ」「幕末の学園ドラマ」「女たちの戦いのドラマ」
「男たちの命懸けのドラマ」の4つ面から楽しみたい。
そこで描かれる物語とは、いかなるものか。
◆『花燃ゆ』に描かれる長州の志士たちと家族の物語
嘉永3年(1850年)萩。
下級武士、杉家の四女・文は、若くして兵学師範として長州藩の軍事調練を率いる
兄・吉田寅治郎(のちの吉田松陰)を誇らしく思っていた。
松陰は11歳にして藩主・毛利敬親に兵学を講義するなど、藩の将来を背負うと期待されていた天才だった。
文はある事件をきっかけに儒学者・小田村伊之助(後の楫取素彦=かとりもとひこ)と松陰を
出会わせることになる。
心の繊細さから他人とつきあうことができなかった文だったが、常識にとらわれず振る舞う兄の影響を受け、
人と関わることの面白さを知り、たくましく成長して行く。
嘉永6年(1853年)、吉田松陰が脱藩する。
脱藩は藩主を裏切る大罪。松陰が犯した罪のせいで苦しめられる文と杉家。
しかしその罪の軽減を藩に熱心に求め続けたのが、のちに文の姉・寿の夫となる小田村伊之助だった。
文は、兄を救おうとしてくれた小田村に密かに憧れを抱く。
毛利敬親のはからいで学問の自由を得た松陰だったが、嘉永6年(1853年)にペリーが来航すると、
その翌年、今度は国禁を犯して密航を企てる。
黒船に乗船して米国行きを訴えるも、その願いは受け入れられず、密航に失敗した松陰は奉行所に自首。
結局、故郷・萩の野山獄に投獄されてしまう。
文と家族は、松陰が犯した前代未聞の罪によってさらにつらい境遇に置かれるが、
家族の絆を改めて感じた文は、書物や食べ物などを差し入れて獄中の松陰を支えるのだった。
野山獄から出た松陰は、家から出るのを禁じられたため、家族や近所の若者たちを集めて
孟子の講義などを始める。
文は、兄を元気づけようと人集めに奔走する。
すると、初めはペリーや黒船の話聞きたさに集まってきた若者たちだったが、
次第に松陰の教える内容にひかれるようになり、高杉晋作、久坂玄端、伊藤博文、吉田稔麿、前原一誠ら、
その後の日本を動かすことになる若者たちが次々と集まってきたのだった。
その松下村塾を幹事のように切り盛りし、塾生たちから妹のように可愛がられた文は、
塾生の一人、久坂玄端と結婚する。
しかし、二人の結婚生活は長くは続かなかった。時代は幕末の動乱に向かって急速に動き始めていく。
兄・松陰は安政の大獄で処刑。長州藩内では幕府への恭順を主張する一派と、
幕府を批判する一派の抗争が始まる。
高杉、久坂、伊藤ら、共に過ごした仲間が次々に争いに巻き込まれていく中、
文は家族と松下村塾を守るため、女としての戦いを生き抜いて行くのであった・・・。
◆たった30年の生涯で世の中を根底からくつがえした吉田松陰
『花燃ゆ』のドラマの主軸となる吉田松陰の生涯とはいかなるものだったのか。
言うまでもなく、松陰は、明治維新の精神的・理論的指導者となった人物である。
旅人であり、不世出の思想家、教育者、兵学者、地域研究家であった。
もし彼が生きていれば肩書を好まず、「元・長州藩士、日本人」と述べたに違いない。
山口県萩市に鎮座する松陰神社のホームページには、吉田松陰の略歴が以下のように記されている。
・好学の杉家に生まれる
吉田松陰先生は、天保元年(1830)萩藩士杉百合之助の次男として
長門国の萩城東郊に位置する松本村(現山口県萩市椿東の一部)に生誕されました。
名は矩方、幼名は寅之助。杉家は家禄26石の貧しい半農半士の下級武士で、学問に熱心な家風でした。
・兵学修業
6歳の時、百合之助の次弟で、萩藩の山鹿流兵学師範を代々務める吉田家に養子に入っていた
叔父吉田大助が亡くなると、その養子として家督を継ぎ、以後吉田大次郎と名乗ります。
兵学師範となるために、百合之助の末弟の玉木文之進による苛烈なまでの教育を受け、
10歳の時から藩校明倫館に出仕し、11歳の時、藩主毛利敬親の前で「武教全書」の講義を行い、
藩主を感動させる程の秀才ぶりでした。
19歳で独立の師範となり、引き続いて22歳まで明倫館で山鹿流兵学を教授しました。
・諸国遊学、そして脱藩
松陰先生は萩にとどまらず、日本各地を遊歴し、勉学に励みました。20歳の時、
萩藩領の日本海沿岸を防備状況視察のため旅したのを初めとして、南は熊本、北は津軽まで歩き、
その総距離は1万3000キロに及びます。
22歳の時遊学した江戸では、佐久間象山等に師事し、天下の有志と盛んに交流を持ちました。
その過程で熊本藩の宮部鼎蔵などと東北視察を計画しましたが、運悪く藩主が江戸不在で、
手形を得ることが出来ませんでした。
約束の出発日が来ると、約束を違えるのは萩藩全体の恥と考え、
松陰先生は手形を持たないままに出発、脱藩しました。
東北視察から江戸に戻った松陰先生は、萩藩邸に自首、国許に送り返され藩士の身分を剥奪されました。
しかしこの時藩主から10年間の遊学許可が出され、再び江戸に向います。
この頃、通称を寅次郎と改め、松陰という号を使い始めました。
再び踏んだ江戸の地で、松陰先生は歴史的な瞬間に遭遇します。世に言うペリー来航です。
・下田踏海、獄を福堂となす
嘉永6年(1853)6月3日、浦賀に来航したペリーの艦隊を目の当たりにした松陰先生は
大きな衝撃を受けました。そして外国への密航を図るに至ります。
翌年3月27日夜、伊豆下田沖に停泊していたペリーの艦隊に乗船した松陰先生と弟子の金子重輔は、
アメリカ渡航を求めるものの、拒否され追い返されてしまいます。
二人は江戸に連行され、国許幽閉が申し渡されました。
萩に帰った松陰先生は、野山獄に繋がれました。
金子重輔はまもなく病死、先生はこれを深く哀しみました。
先生は『孟子』の講義をするなど、乱れていた野山獄の風紀改善に取り組み、
獄内の空気は一変しました。囚人達は互いに教え、学び合い、まさに獄は福堂となったのです。
・松下村塾で志士を育てる
安政2年(1855)12月、獄を出て杉家宅で幽閉された先生は、家族などを相手に、
獄内に引き続いて『孟子』の講義をはじめます。
これに近隣の子弟が大勢参加するようになると、杉家の庭先の小屋を改装し、塾舎としました。
これが現在も松陰神社境内に保存される松下村塾です。
塾を主宰した松陰先生は数多くの人材を育て、その塾生達は明治維新を成し遂げる
原動力となりました。
・東送、不朽の留魂
安政5年(1858)、時の大老井伊直弼は幕府に反対する者達を大弾圧する暴挙に出ました。
いわゆる安政の大獄です。
松陰先生も安政6年(1859)5月25日、再びつながれていた野山獄から江戸に護送され、
死罪を言い渡されます。
同年10月27日、江戸伝馬町の獄内で殉節されました。数え年で30歳(満29歳)でありました。
◆時間を超越した吉田松陰の死生観
吉田松陰は、処刑直前、江戸・小伝馬町の牢屋敷で、「留魂録」を記し後世に残している。
全十六節からなるこの書は、松陰による辞世の句を巻頭に始まる。
「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
そして、松陰の死生観を表す第八節は、時間を超越して、読む者の心に響いて来る。
以下、古川薫氏が「吉田松陰 留魂録」に著された現代語訳である。
「吉田松陰 留魂録 第八節」
今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を
考えたからである。
つまり、農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。
秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、
村々に歓声が満ち溢れるのだ。
この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。
私は三十歳で生を終わろうとしている。
未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、
これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、
惜しむべきことなのかもしれない。
だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。
なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。
人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。
十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、
三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。
十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。
百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、
いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。
それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、
それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、
収穫のあった年に恥じないことになるであろう。
同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。
◆「飛耳長目」~吉田松陰の卓越した情報収集力の秘密~
吉田松陰は世の中の先の先までを見通していた。なぜ、大名でも幕府の隠密でもない若い武士が、
当時、日本屈指の情報収集力、分析力を持つことができたのか?
松陰は「飛耳長目」(ひじちょうもく)という言葉を好んで使った。
「飛耳長目」とは、中国古典の「管子」(紀元前の中国春秋時代の斉の政治家で法家の祖である管仲)の
九守にある言葉で、遠くのことを聞くことができる「飛耳」と、遠くまで見通せる「長目」を備えよ
という意味だ。
松陰は常に現場主義だった。寸暇を惜しんで全国各地を駆けめぐった。
当時、唯一海外に開かれていた長崎、平戸、そして、熊本に遊学。藩主に付き従って江戸遊学。
脱藩の後は水戸から東北。
会津、佐渡、弘前、仙台、日光街道、四国、大和(奈良)、伊勢、貿易港の鞆(広島県福山市)、
御手洗(呉市)、木曽路、中山道と、
当時、武士の中でも、松陰ほど実地に見聞を広めていた者はいなかったに違いない。
そして、浦賀から下田に出向き、ペリーの艦艇に乗り込んでアメリカに渡ろうとし、
失敗して獄につながれた。しかし、萩の野山獄に監禁されて後も、弟子たちに情報収集を担わせた。
松下村塾でも情報の重要性を常に言い聞かせ、塾生たちは全国各地で見聞した情報を
「飛耳長目録」に記し、常に松陰に伝えたのだ。
長州藩に対しては、主要な他藩へ「間諜」(インテリジェンス・リサーチャー)を送り込むことを進言。
また、江戸や長崎に遊学中の者の中で、貴重な情報を寄せた者には「報知賞」を特別に支給すべきだと
主張した。
吉田松陰の卓越した先見性の源は、この「飛耳長目」に他ならない。
松陰は、自らの旅日記『西遊日記』の序で次ぎのように説いている。
「道を学び己を成すには、古今の跡、天下の事、陋室黄巻にて固より足れり。
豈に他に求むることあらんや、顧(おも)ふに人の病は思はざるのみ、
則ち四方に周遊すとも何の取る所ぞと。
曰く、心もと活者なり、活者には必ず機あり、機は触はるるに従つて発し、感に遇うて動く。
発動の機は周遊の益なり」
※現代語訳
一般的な知識は狭い書斎で書物を読めば理解できるが、読書による博学は思考の枠を広げず、
単に博学をもてあそぶに過ぎない。あちらこちらを旅行すれば何かを得られる。常に動いて、
活きた思索を広げることによって機会を得ることができ、弾みが着く。
感動によって、また躍動の機会が得られる。旅こそが発動の機会であり、人生の利益である。
(宮崎正弘氏著『吉田松陰が復活する!~憂国の論理と行動~』より)
◆維新の逸材を続々と輩出した「松下村塾」の奇跡の教育法
吉田松陰が松下村塾を主宰していたのはわずか1~2年に過ぎないにもかかわらず、
後に明治維新の原動力となる数多くの逸材を輩出した。
そして、吉田松陰は、教育に際して、読み・書き・そろばん・古典といった基本も教えたが、
何よりも考える力を育てることに重点を置いていた。
日々起こっている時事問題をテキストにして、なぜこのようなことが起こっているのか、
それは藩のため、国のために良いことなのか、どうすれば解決できるのかをみんなで考えた。
畑をともに耕したり、一緒に酒を酌み交わしながらも語り合ったという。
吉田松陰の教育は、記憶中心ではなく、討論が主体の双方向の教育だった。
教育とは勉強した時の長さでも記憶した量でもない。
一生涯、自ら学び、自ら考え、自ら行動する志と智慧を自修することに違いない。
◆『花燃ゆ』で知るべきもう一人の主人公「楫取素彦」(かとりもとひこ)
NHK大河ドラマ『花燃ゆ』の放送を前にして、吉田松陰と文のふるさとである山口県のみならず
群馬県の観光も盛り上がっている。
というのは、松陰の盟友で、妹の寿(ひさ、早世)、文(夫・久坂玄瑞が自害、改名して美和子)と再婚した
「楫取素彦」(かとりもとひこ、藩命により小田村伊之助より改名)が、
群馬県の初代県令(知事)を務めたためだ。
楫取素彦は、松陰亡きあと松下村塾の塾頭を務めた。坂本龍馬から薩長連合の構想を聞き、
龍馬と木戸孝允と引き合わせ、薩摩藩と宿敵同士だった長州藩内の意見を大転換させた張本人だ。
楫取なくして、薩長連合もなく、大政奉還もなく、明治維新も成し遂げられなかったかも知れない。
維新後には、群馬県令として、いくつもの藩を寄せ集めた群馬県をまとめ上げ、
世界遺産に認定された富岡製糸場を世界に冠たる工場し、群馬県を日本有数の教育県とした。
「楫取」の「楫」とは「船のかじ」のことだ。まさに、楫取素彦は「かじ取り」、リーダーだった。
楫取素彦を知らずして、幕末維新は語れない。
◆吉田松陰曰く、「夢なき者に成功なし」
以下の言葉を心に刻み、日々、精進したい。
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