「自由と民主主義の国」のアイロニー
アメリカ合衆国は、1776年の建国以来、「自由と民主主義の模範国家」を自認してきた。第二次世界大戦後は、二度の大戦を通じて先進国の中で唯一、戦場とならず産業インフラ施設が無傷で残ったこともあり、外交、軍事、経済の一人勝ちの強大国として世界に君臨し、「自由」の価値観を拡散してきた。
しかし、国内については、人種差別、とくにアフリカ系アメリカン(黒人)については、基本的人権が踏みにじられ続けるという体制矛盾を抱え続けてきた。米国が誇る自由と平等の概念は、白人に限られた制限付きの理想だった。法的には人種差別はないことになっているが、いまだに国民の意識レベルではお寒い限りだ。現職大統領のトランプでさえ、新規移民のヒスパニック系住民に対する人種的偏見を隠さない。
その戦後の米国で、人種差別撤廃を求めて多くの黒人たちが立ち上がる。その先頭に立ったのが、差別の激しい南部ジョージア州アトランタ出身の黒人牧師、マーティン・ルーサー・キングだった。‘
アラバマでのバスボイコット運動
プロテスタント系のバプテスト派牧師の家に生まれたキングは、地元の高校を出た後、北部のボストン大学神学部大学院に学び、戦後の1954年に25歳で南部に戻りアラバマ州の州都モンゴメリーの教会牧師に就任する。
当時、モンゴメリーの人口は白人が7万人、黒人5万人と拮抗していたが、人種隔離政策は厳格で、トイレも、バスの座席も教会さえも分離されていた。黒人女性は6割が家政婦、黒人男性の半数は単純労働に従事しており、奴隷制のプランテーション時代と変わらない。それでも黒人たちは白人優位の体制に甘んじていた。キングは息苦しさを感じながらも、権利獲得の運動に身を投じることは考えていない。説教壇から、「黒人として誇りを持って生きよう」と呼びかけるだけだった。そして一年が経ち、キングを愛と正義の闘いに立ち上がらせる事件が起きる。
55年12月、帰宅途中の黒人女性のローザ・パークスが、バス車内で白人男性に席を譲るように運転手から命じられ、従わなかったとして警察に逮捕される。警官に抗議する彼女の勇気ある行動は、理不尽な扱いを我慢し続けてきた黒人社会に火をつけた。アラバマ州法とモンゴメリー市条例では、白人と黒人の座席は厳格に分けられていた上、着席の優先権は白人にあると規定されていた。公法による差別がまかり通っている社会。同じ料金を払いながら。異様である。
市内のバスの乗客の7割が黒人だった。市内の黒人女性団体が、パークス逮捕を受けてバス乗車をボイコットする方針を固め、黒人牧師団体に支援を呼びかける。キングは賛同し、日曜礼拝を通じて広く黒人にバスボイコットへの参加を募る。実力行使の月曜日、バスは終日、ガラガラだった。黒人は一人もバスを利用しなかったのだ。当日、抗議集会が開かれたホール・ストリート教会は、数千人の黒人たちで溢れ返る。
「もし、私たちが間違っているなら」
説教壇に上がったキングは語りかける。
「もし私たちが間違っているなら、最高裁が、合衆国憲法が間違っていることになります。もし私たちが間違っているなら、(愛と正義を説く)ナザレのイエスは単なる夢想家で、この地上には現れなかったことになります。それゆえ、私たちはここモンゴメリーにおいて、正義を洪水のように、恵みのわざを大河のように尽きることなく流れさせるまで闘い続けることを決意したのです」
格調高い演説に、会場は拍手と歓声がいつまでも鳴りやまなかった。非暴力の抗議、権利獲得運動がここから始まる。
南部の白人社会には、「人種差別政策に黒人から抗議の声が上がらないのは、彼らもそれを承認しているからだ」という思い上がりがあった。それを一人の黒人女性の勇気ある抗議行動と、キングの魂のこもった呼びかけの一言一言が大きな社会改革のうねりを生み出すことになる。
「初めに言葉ありき」(「ヨハネの福音書」第1章第1節)なのだ。
長い闘いは、始まったばかりだった。(この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『黒人差別とアメリカ公民権運動』ジェームス・M・バーダマン著 水谷八也訳 集英社新書
『マーティン・ルーサー・キング 非暴力の闘士』黒崎真著 岩波新書






















