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第36回
『軍師官兵衛』に学ぶ生涯勝ち続ける法
~信長・秀吉・家康が最も頼り最も恐れた男~

次の売れ筋をつかむ術

2014年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』が始まった。

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主人公は、戦国時代、稀代の軍師として活躍し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が
最も頼りにし最も恐れた男、黒田官兵衛だ。 

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(左から)黒田官兵衛、豊臣秀吉、徳川家康、織田信長
 
歴史とは生き残った勝者が描く。さらに後世の者がそれに脚色を重ねる。
 
つまり、本当の歴史は一つのはずだが、語り伝えられている歴史がすべて事実なはずがない。
 
『軍師官兵衛』というタイトルについても、日本の戦国時代に「軍師」という立場が
あったかどうかも疑わしい。

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日本史上の軍師は、江戸時代に庶民の読み物として描かれた「軍記物」「軍談」が元になっている。
それらの物語の多くは、中国の『三国志演義』の諸葛亮孔明を手本にした往時のエンターテインメントだ。
 
武田信玄の軍師として名高い山本勘助は、江戸時代前期に著された『甲陽軍鑑』など一部の書物で
紹介されているだけで、実在したかどうかも定かではない。
 
黒田官兵衛とともに戦国時代を代表する軍師として「両兵衛」「二兵衛」と称された竹中半兵衛も、
数多くの軍功に関する逸話や美談が伝わるが後世の創作だと思われるものも多く、
史実上の活躍は不明な点が多い。
 
黒田官兵衛の生涯も謎だらけだ。
 
官兵衛に関する後世の物語のほとんどは、
江戸幕府開府から約70~80年近くも経った1671年(寛文11年)~1688年(元禄元年)に、
黒田家の命によって福岡藩に仕えた儒学者、貝原益軒が編纂し、
その後も数度の改訂を受けた『黒田家譜』に基づいている。
 
藩祖を神格化し、徳川家を尊重するのは当然で、すべてが史実であるわけがない。
 
しかし、黒田官兵衛が実在し、官兵衛の長子、黒田長政が、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの功により、
徳川家康から筑前福岡藩52万3千石を与えられたことは疑いの余地がない。
 
その後、長政を初代藩主とする福岡藩は12代長知に至るまで続き、明治維新を迎えた。
1884年(明治17年)、黒田家は侯爵となり華族に列している。
 
265年にわたる江戸時代の間に、世継ぎの不在、武家諸法度違反、幕府に対する謀叛嫌疑などによって、
お家お取り潰しになった大名の数は約230家にも及んだ。
 
そんな中、関ヶ原の功が認められたとはいえ、外様大名だった黒田家が維新まで生き延びたことは、
戦乱の世に16歳で初陣を飾って以来、生涯50数度もの合戦で1度も負けなかった
『軍師官兵衛』の面目躍如に違いない。
 
以下は大河ドラマでも描かれるであろう黒田官兵衛の一生であると伝わる物語のあらましだ。
 
真実はわからないものの、官兵衛の生き様から、今日にも通じる、自らが生涯勝ち続け、
生き続ける集団を作る法が伝わってくるのではないだろうか。
 
●天才軍師、官兵衛を育んだ黒田家のルーツ

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tu36-05.jpg(左)官兵衛の鎧兜、(右)黒田家家紋
 
黒田家は、近江の黒田村(現・滋賀県長浜市木之本町黒田)に住んでいた佐々木源氏の末流の
京極氏信の孫、宗清(宗満)の代で姓を黒田に変えたことに始まるとされている。
 
同地は、琵琶湖の湖北に位置する交通の要衝で、あまたの戦国武将の足跡が色濃く残っている。
 
黒田家は、官兵衛の曽祖父である5代高政の代になって、足利幕府内の勢力争いに巻き込まれ、
近江を離れ、商業の町として賑わっていた備前福岡(現・瀬戸内市長船町福岡)に移り住む。
 
同家にとって不遇の時代だったが、中世における山陽道随一の商都で、お家再興を目指し、
虎視眈眈と才を磨き、富を蓄えていた。
 
そして、黒田家は、官兵衛の祖父である重隆の代になって、官兵衛の父、職隆(もとたか)とともに、
備前福岡から播磨(兵庫県姫路市)に移り住む。
 
秘伝の目薬を広峯神社のお札に付けて売り、大きな財を蓄えたと言われる。
 
その後、父職隆は、1546年(天文15年)、播磨の有力豪族であった御着(ごちゃく)城主、
小寺政職(まさもと)に仕え、姫路城代を任される。
 
当時も現在の姫路城と同じ場所に、官兵衛の祖父重隆と父職隆が築いた小さな城があった。
 
●姫路城で若くして才能を開花させた智謀の将
 
官兵衛は、1546年(天文15年)11月29日、姫路城で、黒田職隆の嫡男として誕生する。
母は明石城主、明石正風(まさかぜ)の娘。

tu36-06.jpg 姫路城
 
その日は、雪が降り、一面、銀世界だった。家人らは、これを英雄の誕生、家が栄える吉兆だと
喜び合ったと伝わる。
 
官兵衛(幼名:万吉)は、若くして聡明さを発揮し、城主の小寺政職にその才を認められる。
 
16歳にして禄高80石と破格の待遇で近習となり、翌年には初陣も飾り、
元服して官兵衛孝高(よしたか)と名乗る。そして、弱冠22歳で家老に昇進する。

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1567年(永禄10年)、家督を継いで姫路城代となり、志方城主、櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘、
光(てる)を娶る。官兵衛は、戦国時代の武将には非常に珍しく、生涯、側室を持たなかった。
翌年、嫡男の長政(幼名:松寿丸)を授かる。
 
1569年(永禄12年)、姫路に攻め入った龍野城主、赤松政秀の3千の軍勢を青山の合戦で撃退。
官兵衛の武名は一気に知れ渡る。
 
●運命を変えた信長、秀吉との出会いと絶体絶命の危機

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tu36-10.jpg (左)織田信長、(右)豊臣秀吉
 
1575年(天正3年)、播磨の豪族たちは、西の毛利、東の織田のどちらに付くかで揺れ動いていた。
 
官兵衛は、織田信長が桶狭間の戦い、長篠の戦いで勝利を収め、天下を取る器量を持ち他を圧倒する
勢いがあることを見抜き、主君小寺政職に織田方に付くよう説得する。
 
自ら岐阜城に使いに出向き、信長に中国毛利攻めを進言。
 
「毛利攻めを有利に運ぶためには、まず播磨をお押さえください。その折には
 われわれが先導役を務めましょう」。
 
信長は感服して、
「官兵衛の作戦は理にかなっており、自分の考えと同じである」とほめ、
「秀吉を播磨に遣わすので、その下で協力して働くように」と命じ、
名刀「圧切(へしきり)」を与える。
 
翌年、小寺が織田方に付いたことを知った毛利は5千の兵を英賀ノ浦に上陸させる。
しかし、官兵衛の働きで撃退。信長から謝状が贈られる。
 
1577年(天正5年)、信長配下の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の軍勢が播磨入る。
官兵衛の働きかけで、播磨の諸将も一度は織田方に付くと決める。
 
しかし、秀吉に従って播磨平定を進める官兵衛に予想だにしない事態が起こる。
 
織田方の摂津有岡城主(現・兵庫県伊丹市)、荒木村重が、突如、信長に謀反を起こしたのだ。
 
さらに、官兵衛の主君小寺政職までもが村重に呼応して信長に反旗を翻そうとする。
官兵衛は政職をいさめるが、政職は聞く耳を持たず次のように言う。
 
「それがしと村重は浅からぬ付き合いだ。村重が翻意するならば、それがしも翻意する故、
 その方、村重の説得に行って参れ」。
 
そう命じる一方で、政職は村重に官兵衛の殺害を許す書状を送る。
 
官兵衛は、単身、有岡城に乗り込むが、結局、村重説得は不調に終わり、牢に幽閉されてしまう。
 
信長は官兵衛が有岡城から帰らないことから、官兵衛が村重に寝返ったと思い、
秀吉の元に預けられていた官兵衛の嫡男、松寿丸(後の長政)の殺害を命じる。
 
しかし、先輩軍師の竹中半兵衛が官兵衛に限って寝返るはずはないと考え、松寿丸を引き取り、
本拠地の菩提山城に密かにかこまう。
 
1年後、官兵衛は有岡城の落城によって救出されるが、長い土牢暮らしで頭髪は抜け落ち、
歩くことさえできないほど衰弱していた。
 
官兵衛が救い出された時、信長は松寿丸の殺害を命じたことを後悔し、
「官兵衛に合わす顔がない」と嘆いたが、竹中半兵衛が松寿丸を隠し置いて無事であることを聞き、
大層喜んだという。
 
半兵衛は、秀吉による三木城攻めの際に亡くなるが、官兵衛と長政は半兵衛の恩を忘れず、
長政は半兵衛の孫、重次を家臣に召し抱える。
 
居城の御着城が落城し、毛利を頼って備後鞆の浦(現・広島県福山市)に落ちのびた
主君の小寺政職に対しては、その子、氏職(うじもと)が落ちぶれて暮らすのを聞き、
秀吉の許しを得て客分として召し抱える。
 
主君に裏切られたとはいえ、自分が今日あるのは小寺家のお陰だと考えたのだ。
 
官兵衛は、下剋上、裏切り、寝返りが横行していた戦国時代には希有な、自分を裏切った主家にも
恩で報いる度量の大きい至誠の人だった。
 
●奇跡の「中国大返し」と秀吉の天下取りを進言
 
官兵衛は、それ以降、信長の命に従い、秀吉の懐刀として、播磨平定や中国攻め、
四国・九州征伐など、数々の合戦で名を馳せる。
 
1580年(天正8年)、播磨の地に詳しい官兵衛の活躍により東播磨の大半は従い、最後に残った三木城も
兵糧攻めでついに落城し、織田軍を率いる秀吉は播磨を平定した。
 
秀吉は、当初、三木城を次の中国毛利攻めの本拠にしようと考えていた。
 
しかし、官兵衛は、播磨の中心にあり海陸交通の要衝である姫路こそ本拠にふさわしいと
自ら居城していた姫路城を秀吉に献上し、父職隆とともに国府山(こうやま)城に移った。
 
そして、次なる毛利攻めをにらみ、より堅固な姫路城の築城を進言した。
 
1582年(天正10年)、官兵衛は秀吉に従って備中(岡山県西部)へ進撃する。

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その前に立ちはだかったのが、周囲を沼に囲まれた毛利方の備中高松城(現・岡山県岡山市北区高松)だった。
 
秀吉軍も攻めあぐねたが、官兵衛が考案した、堤防を築いて川の水を引き込み城を水没させる
「水攻めの策」によって落城寸前まで追い詰める。
 
水攻めの最中の6月2日未明、京で信長が家臣の明智光秀に討たれる「本能寺の変」が起こり、
信長は自害する。

tu36-12.jpg 明智光秀
 
悲報が秀吉の陣に届いたのは3日夜だったと言われる。
 
肩を落とす秀吉に、官兵衛は、
「御運が開かれる機会が参りましたな。謀反人の光秀をお討ちになれば、
 天下があなたの手に入ってくるでしょう」と、
天下取りの好機が到来したと直言する。
 
秀吉は官兵衛の策を容れ、信長の死を隠して、即座に毛利方と和睦する。
 
6日より急遽撤退を開始。8日に姫路城に戻り、その日の深夜に再び進軍を開始。
 
13日に「山崎の合戦」(現・大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)で光秀を撃ち破る。
 
通常10日は掛かる行程を実質7日で走破した戦史上まれに見る強行軍は、後に「中国大返し」と呼ばれる。
 
この一戦によって秀吉は天下人への階段を歩み始める。
 
そして、1583年(天正11年)、秀吉は「賤ケ岳(しずがたけ)の合戦」で柴田勝家を討ち、
天下を大きく引き寄せる。
 
この頃、官兵衛は、高山右近に導かれキリシタンになる。洗礼名はシメオンと言った。

tu36-13.jpg 官兵衛キリシタン印章
 
●秀吉からその才智を恐れられ長政に家督を譲り隠居
 
その後も、官兵衛は、天下人となった豊臣秀吉に付き従い、四国、九州征討に参画。
ついには島津をも降伏させる。
 
1587年(天正15年)、その論功行賞としては少ないようにも思える豊前国6郡(現・大分県中市)
12万3千石を秀吉より与えられる。
 
一方、佐々成政には、肥後国(現・熊本県)の大半の50万石が与えられている。
 
ところが、佐々成政は肥後の領国化を急ぐあまり、領地を与えられたその翌月に検地を推し進める。
このため、国人衆の反発を招き、「肥後国人一揆」をもたらした。
 
その結果、成政は失策を咎められて秀吉に切腹を命じられ、国人もほとんどが処刑された。
 
しかし、官兵衛は、宇都宮氏をはじめ豊前国各地の国人領主の一揆を無事鎮圧することに成功し、
その後、約14年間にわたって同地を治めた。
 
秀吉は官兵衛を恐れて京から遠い九州の少ない石数の領地を与えたとか、キリシタンとなった官兵衛を
危険視し始めていたなど諸説あるが、以下の逸話が有名だ。
 
秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、
家臣達は徳川家康の名を挙げたが、秀吉は官兵衛を挙げた。
 
「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と述べた。
 
側近は
「官兵衛殿は辺境の10万石程度の小大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、
秀吉は
「お前達は官兵衛の本当の力量を分かっていない。あやつに100万石を与えたら途端に天下を奪ってしまう」
と言った。
 
これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに嫡男の長政に家督を譲り、
「如水(じょすい)」と号して表面上隠居する。
 
官兵衛は秀吉から、その才智を恐れられ警戒されていることを感じ取り、すぐに手を打ったのだろう。
 
その後も、官兵衛は秀吉による天下統一の仕上げとなった小田原城攻め(現・神奈川県小田原市)に参加し、
その「戦わずして勝つ」調略術の真骨頂を発揮する。

tu36-14.jpg 小田原城
 
1590年(天正18年)、秀吉軍は20万余の大軍で小田原城を取り囲んだが、堅固な城はなかなか落城しない。
 
そこで秀吉は力攻めをあきらめ、官兵衛に説得を命ずる。
 
官兵衛は丸腰で単身城内に乗り込み、礼を尽くして北条氏政、氏直父子に対面する。
 
「北条家目下の状態は、あたかも烈火を以て釜中の魚を煮るが如く、その運命既に定まりたり」と説く。
 
大軍に包囲された北条氏にもはや勝ち目はないことを自覚させ、家名の存続、城兵の助命などを
条件に説得し、無血開城させる。
 
官兵衛には、北条氏から家伝の「日光一文字」の刀、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」、「白色の法螺貝」が
贈られ、現在に伝わる。
 
1592年(文禄元年)には秀吉の「朝鮮出兵」の軍監として出陣。
 
しかし、翌年、許可なく帰国したとして秀吉の怒りを買い、官兵衛は頭を丸めて謹慎する。
 
●自ら仕掛けた最初で最後の戦いと最期の時
 
1598年(慶長3年)8月、豊臣秀吉が京都伏見城で死去。 
 
1600年(慶長5年)、日本を二分する天下分け目の決戦、「関ヶ原の戦い」が幕を開ける。

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徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍が、
関ヶ原(現・岐阜県不破郡関ケ原町)での本戦のみならず全国各地で激突する。
 
官兵衛は、家康が勝利するが長期戦になるだろうと読み、その間に自分は九州を制覇。
そして、家康が三成を破って兵が疲労しているところを見計らって、一気に家康を攻め滅ぼし、
自ら天下を取ろうと考えたとも言われる。
 
7月に石田三成が挙兵すると、官兵衛は徳川家康の東軍に付き、九州で挙兵する意志を示す。
 
息子の長政は家臣を率いて関ヶ原の家康の東軍に馳せ参じる。

tu36-16.jpg tu36-17.jpg (左)黒田長政、(右)徳川家康
 
隠居住まいだった官兵衛はそれまで蓄えていた金銀をはたいて中津城に兵を募る。
浪人や百姓ら9千人を集めたにわか作りの軍であったが、破竹の勢いで九州の西軍の諸城を次々に落とす。
 
残すは薩摩の島津だけとなった時、関ヶ原で勝利した家康から停戦命令を受ける。
自ら仕掛けた最初で最後の戦いが終わる。
 
実は関ヶ原では、長政が家康から命じられ、西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する
役目を見事に果たしていた。
 
その結果、皮肉にも息子の活躍により、官兵衛の予想に反して合戦は1日で決着してしまい
野望を阻まれる。
 
関ヶ原の戦いの後、長政は官兵衛に、
「家康公は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と
 三度も両手で私の手を握って感謝してくれた」と報告した。
 
これに対し官兵衛は、「その時、お前の空いた手は何をしていたのだ」と叱責したという。
つまり、その手でなぜ家康を討たなかったのかと言ったのだ。
 
官兵衛の野心家ぶりを示す有名な逸話だが、
確認できる最も古い出典は何と1916年(大正5年)に刊行された『黒田如水傳』しかなく、
後世の創作であるとも言われる。
 
著したのは、福岡藩出身の子爵で、伊藤博文の右腕となり政治家として活躍した金子堅太郎である。
 
司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも登場する、日露戦争の際にハーバード大学の学縁を頼って
アメリカのルーズベルト大統領と講和仲介の交渉をした人物だ。 
 
合戦後、家康は息子の長政に論功行賞として筑前52万3千石を与えた。
 
しかし、隠れた野心を悟ったのか官兵衛には一切恩賞を与えなかったとも、
官兵衛が辞退したとも伝わる。
 
長政が福岡藩の藩祖となると、官兵衛は妻とともに余生を福岡で過ごし、長政や家臣への教育や
太宰府天満宮の再建に努めた。
 
福岡の地名は、官兵衛の曽祖父が居を構えた備前福岡(現・瀬戸内市長船町福岡)にちなんで付けられた。
 
1604年(慶長9年)4月19日、黒田官兵衛は京都伏見藩邸にて天に召された。享年59歳。 
 
不敗の人生を締めくくった辞世の句は、
「おもひおく 言の葉なくてつゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。 
 
 

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