昭和46年(1971年)7月5日の内閣改造で、時の総理、佐藤栄作は、通産大臣(現経産大臣)に自民党幹事長の田中角栄を抜擢する。
当初、用意された官房長官、外相のポストを田中はいずれも蹴り、通産相に就任した。
「なる気はなかったが、引き受けたら、日米繊維交渉がある、というんだ。佐藤さんに、はめられたんだ」と田中は回想している。しかし実際には、直前幹事長として日米繊維交渉が重要な局面にあることは熟知していた。
日米繊維交渉には、前々任の大平正芳、前任の宮沢喜一がともに手こずり暗礁に乗り上げていた。
日米間の繊維摩擦は、1950年代に“ワンダラー(1ドル)ブラウス”と呼ばれる安い日本の綿製品がアメリカ市場に押し寄せ、米国繊維業界を圧迫し始まった。
日本の業界は輸出自主規制を繰り返して問題をかわしてきたが、60年代後半になると日本の合成繊維が世界市場を席巻し、日米間の政治問題に浮上する。
その後の日米貿易摩擦につながる難題であった。ニクソン米大統領は、国内繊維産業の保護、救済を公約に掲げて1968年の大統領選挙で当選しただけに、「日本は実効性ある対応を取れ」と強硬であった。
「おまえ、ひとつ、これを片づけてくれ」と佐藤は田中に言ったという。
この難題に佐藤は、後継リーダー候補として力をつけてきた田中の豪腕を投入して解決を託し、その交渉力を試そうとした。
田中にしてみれば、大平、宮沢というライバルたちが失敗した課題を解決できれば後継レースでリードするチャンスでもある。
通産省に乗り込んだ田中は、「みんな集まれ」と大臣室に幹部たちを招集する。顔ぶれがそろうと、「サア、戸を閉めろ」と命じてダミ声を張り上げた。
「第一番の仕事に日米繊維交渉をやる」
座はざわつきはじめる。「ここまで難航した交渉はそう容易くありません」。事務次官以下そろって辞めると抵抗した。
田中は一同を睨め回す。そして言った。
「ダメだ。お前らが辞めても、オレは絶対に辞めないよ」。大臣室は静まりかえった。
官僚は失敗が予想される課題には手を出さない。減点さえしなければ出世が約束される人事制度のもとでは、「積極性」は無用の行動原理だ。官庁でなくても、組織という組織には官僚主義ははびこっている。
「まずは、そこからだな」と田中は考えていた。 (この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※ 参考文献
『早坂茂三の「田中角栄」回想録』早坂茂三著 小学館
『田中角栄の資源戦争』山岡淳一郎著 草思社文庫
『日米貿易摩擦―対立と協調の構図』金川徹著 啓文社