取引先も売上もない価値ゼロの会社を引き継ぎ、取引先の開拓や経営改革を次々と断行。わずか10年で高収益企業をつくりあげた平鍛造株式会社 元社長の平美都江氏に、爆発的な利益《利益爆発》を生み出す「社長の姿勢」について、お聞きしました。■平 美都江(たいら みとえ)氏/平鍛造㈱ 元社長/㈱インプルーブメンツ 代表取締役社長
1977年、父・昭七が設立した平鍛造株式会社に入社。父の天才的な技術で製造される超大型鍛造リングにより、他の追随を許さない企業として急成長を遂げる。しかし、リーマン・ショックによる景気悪化などにより受注量が激減。型破りな父による強引な客先交渉が裏目に出て、2009年に廃業する事態に。会社存続の危機に追い込まれる中、同年、代表取締役社長に就任。数々の経営の合理化を進め、数年で業績を回復させる。2018年、大手企業へ株式を90%譲渡し完全子会社化。著書に『なぜ、おばちゃん社長は価値ゼロの会社を100億円で売却できたのか』(ダイヤモンド社)、『スタートアップ倒産させない絶対経営10の原則』(同社)などがある。
弟の死、父の病…会社は存続の危機に
Q なぜ、取引先も売上もない状態になってしまったのでしょうか?
父が創業した会社は、超大型リングを鍛造していました。鍛造とは、鉄やステンレスを高温で加熱して圧力をかけ、伸ばしてリングにしていきます。父が造る鍛造リングは外側と内側に大きな凹凸がついていて、材料重量を削減し、旋盤で削る時間もすごく短縮できるもので、この技術に勝る会社はなく、世界的競争力を持っていました。
しかし、2代目にあたる私の弟が45歳の時、工場内の事故で亡くなってしまいました。弟の息子が高校生だったため、父は社長に復帰しましたが、レビー小体型認知症の兆候がありました。
レビー小体型認知症は、被害妄想、誤認が激しくなります。父は上場会社と取引をする努力してましたが、その上場会社の社長に「会社が乗っ取られる」と妄想し、突然、「会社をたたむ」と言い出しました。取引先の信頼を失ったところにリーマンショックが来て、仕事が全くなくなってしまって廃業寸前。苦渋の決断で、父と株の所有権を争う訴訟に踏み切り、経営権を得ました。
“必死の営業活動”と“機械整備”が利益爆発の源泉
Q 価値ゼロの状態から会社を立て直した方法について教えてください
社長になりましたが、仕事がゼロになってしまった。それに、父に対しての60億の支払い。これは株式の買い上げと退職金。会社の現金もゼロになってしまって、しかも裁判中は社員も1年休んでいたので、戻ってきてくれたのが15名。そこからのスタートです。
人手不足で、仕事もない。銀行からは「おたくに貸すお金はありません」と言われる始末。「価値ゼロ」の会社であることをそこで自覚しました。
ではどうやって立て直したかというと、細かいところは『利益爆発の経営法則』音声講話の中で話していますが、とにかく「営業活動」と「機械の整備」から始めました。特に営業は、今までの取引先では信用をなくしていましたので、ほとんどが新規をとるためです。とにかく色々なところへ「仕事をください」とお願いをしに、国内だけでなく海外にも行きました。
同時に、機械の整備を進めました。人手をかけないIT化・自動化を徹底しました。製造業は現場が命です。小さな工場を一つ売却して得た現金を投資して、製造設備に思い切って投資をしました。そのおかげで最終的には損益分岐点が低い会社を作ることができました。
経営の根幹は「一倉社長学」
Q 改革を進める中、社長の姿勢として大切にしていたことはありますか?
「いい会社と悪い会社があるのではなく、いい社長と悪い社長がいる」という一倉定先生の教えを心に刻んでいました。全ての責任は社長にあるということ。それからトップセールスをするということ。それから、事業計画自体も社長が作らなきゃだめだということ。
30代で専務になったとき、損益分岐点や粗利、事業計画…経営のことを聞かれても全く分からなかった。それが悔しくて、一倉先生の本を買って計画書を作ろうと思いました。全く記入できずに、最初は簿記の勉強から始めました。一倉定先生の本は、全てにおいて何回も何回も読み直しました。
基本的な「一倉社長学」のコアな部分は体に叩き込んだと思っています。これが本当に経営を行っていく上で役に立ちました。自分を救ってくれた。 次のページ「愛社精神はいらない!」
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