「氣が強い」というと、きつい性格や乱暴な性格をイメージする方が多くいます。女性に対して「氣が強い」という表現を用いると嫌な顔をされることもあります。しかし、「氣が強い」とは、本来は良い意味で用いられます。
「氣が強い」とは、ここ一番、大事な場面で「氣」の交流が活発であることを指します。文字通り「氣(の交流)」が強いのです。事業が順調のときは氣が交流しているのは当たり前。不調のときは氣が滞りやすいものです。たとえ逆境であっても、氣の交流を活発に保てるかどうかで真価が問われます。
中には、生来の性質として氣が強い方がいます。それは稀であり、通常は鍛えることによって氣が強くなります。どうしたら氣が強くなるのでしょうか。
それには自分という存在を正しく理解することが必要です。
我々は天地自然の一部の存在であり、天地自然と交流することで生きています。しかし、日々の生活の中で、いつの間にか自己中心の心の状態に陥り、自分の力だけで生きているような錯覚が生じます。このとき、天地自然との「氣」の交流が断絶し、漠然とした不安や孤独に襲われるのです。
天地自然と「氣」が交流しているとき、自分という存在を超えた「何か」が応援してくれている実感を持つことが出来ます。この実感こそが氣が強くなる土台なのです。
それを通常、「氣の意志法」で訓練します。「氣の意志法」はメディテーションであり、天地自然との繋がりを実感として得られます。先にご紹介した「氣の呼吸法」は氣の意志法の一つであり、呼吸を通じてそれを実践します。
プロアスリートを数多く指導していると、高い能力があるにも関わらず、いざという時に力を発揮出来ない選手が多いことが分かります。
LAドジャースでも200人以上の選手と関わっていましたが、そういう選手が多くいました。一方で、いざという時に力を発揮出来る選手は何らかの「信仰」を持っています。それは特定の宗教というよりも、その選手にとって心の拠り所となる「何か」です。
ドミニカ共和国から来ていたある選手は、とても氣が強く、チャンスやピンチにも全く動じない選手でした。氣の意志法を教えると彼はすぐに理解しました。
その理解の早さに驚き、彼の育った環境を尋ねてみたところ、お祖母様から、常に自分という存在を超えた「何か」によって護られていると教わって来たそうです。
同時に「瞑想」も教わっていて大事な場面に臨む前に実践していました。子供の頃からやっていたことならば、習得が早いのも納得でした。
その「何か」とは、天地自然のことを指しています。人によっては「神」と呼びます。日本では、「宗教」や「信仰」というと怪しいものと捉える人が多く、事実、中にはそういうものもあるのでしょう。
しかし、我々は天地自然の一部の存在である以上、天地自然を相手に生きることは当たり前のことです。自分という存在だけで生きようとするのは無理があるのです。
戦前にあった「お天道様が見ている」「お天道様に申し訳ない」という教育も、天地自然を相手にしたものです。自立に向けた教育には「自律」と「他律」があります。
他律には「法律を守る」「ルールを守る」等があります。現代では他律教育が多く、自律教育がほとんどされなくなりました。確かに他律も重要ですが、それだけでは「法律に触れなければ何をしても良い」「ルールになければ何をしても良い」という人間を育てることになります。
天地自然を相手として、自分自身の中に規範を持ち、自分を律する教育も不可欠です。
氣が弱くなるときは、天地自然との氣の交流が滞り、自分一人の存在になっているときです。漠然とした不安や孤独は、ただ心を強く持とうとするだけでは解決しません。
氣の意志法を通じて、天地自然との繋がりを実感持つことが氣を強くする土台であり、具体的な方法なのです。