恐れられても憎しみを買うな
先にも書いた通り、マキアヴェッリは、〈君主(リーダー)は、愛されるより恐れられよ〉と説いているが、その後にこうつけ加えている。
〈君主は仮に好意を得ることがないとしても、憎悪を避けるような形で恐れられなければならない〉
憎悪は何から生まれるのか。マキアヴェッリによれば、憎悪は、君主の強欲によって民衆の財産と婦女子を奪うことで生じる。婦女子を奪うというのは、彼の時代のことであろうが、現代に置き換えれば、民衆の平穏な生活を奪うということにでもなるだろうか。
組織、会社のトップとして、恐れられるほどのリーダーシップを発揮しても部下たちは、それが自ら属する企業体の発展につながり、わが身の利益になる限り受け入れる。しかし、過度なリストラで生活が脅かされるとなれば、トップへの憎悪、恨みにつながり、組織運営は暗礁に乗り上げてしまう。
社員、組織員の利害を侵さない配慮を心がけるかぎりにおいて、〈恐れられることと憎まれないことは、恐れられることと愛されることよりもより容易に両立しうる〉と彼は主張する。
軽蔑を生まないために
君主が避けるべき最大の悪徳としてマキアヴェッリはもう一つ、民衆による「軽蔑」を挙げている。
〈君主が軽蔑されるのは、気が変わりやすく、軽薄で、軟弱で、臆病で、決断力に欠けると見られる場合である。このことを君主は一つの暗礁と受け止めて大いに警戒しなくてはいけない。そのためには、行動にあたって偉大さ、勇気、威厳、断固として動じないと見られるようにする必要がある〉
民衆、部下たちは、リーダーが信頼に足る者かどうか、注視している。判断がその場しのぎで、しかも朝令暮改とあっては、そのリーダーの指示は軽んじられ、だれもついて来ない。見放されてしまう。
恐れられていればこそ、〈自らの決定が撤回不可能であることを知らしめ〉ることが重要となる。
“愛されキャラ”の限界
ひるがえって、この国の現在を考えてみる。
長引くコロナ禍によって国民心理も経済も疲弊し、ロシアのウクライナ侵攻の影響で物価は上がり、国を取り巻く安全保障環境も緊迫度を高めている。国民は今こそ強いリーダーシップを求めている。その中で岸田政権は、閣僚更迭問題でも優柔不断な対応を繰り返し後手後手の悪手を踏んでいる。
首相が強調する「聞く力」は、自らの決断力のなさを象徴している。敵を作らないようにとの“愛されキャラ”追求の姿勢は、かえってとどまることのない内閣支持率の低下を招いている。軽薄とは言わないが、「気が変わりやすく、軟弱で、臆病で決断力に欠ける」、まさにマキアベッリのいう「民衆の軽蔑を招く」要件がそろっているとも見える。
さらに、GDP比2%に向けた防衛費の増額方針については、その財源について、増税もちらついてきた。物価高に苦しむ国民からの所得税、経済苦境から脱しきれない企業からの法人税の更なる取り立てに踏み込めば、それはまさに国民の財産に踏み込み、「軽蔑」に加えて「恨み・憎悪」を生むことになる。マキアヴェッリの指摘通り必定である。
愛されることより恐れられることを避けないリーダーを国民は期待しているのではないか。〈君主はそう見られるように努力しなければならない〉というのが、マキアヴェッリの時を超えた忠告だ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『君主論』ニッコロ・マキアヴェッリ著 佐々木毅全訳注 講談社学術文庫
『マキアヴェッリ語録』塩野七生著 新潮文庫