【意味】
たった一言でも気に障るようなことをいえば、人はそれを屈辱と感じて復讐を企てる。
【解説】
「貞観政要」の言葉になります。
「口は禍のもとなり」(俗諺)といわれますが、人間は言葉の出入りに細心の注意を払う必要があります。
唐帝二代目:太宗(タイソウ)ほどの大権力者であっても、「言語は、君子の枢機(大切なこと)なり。談(会話)、なんぞ容易ならん」といって、自分の言葉には細心の注意を払い、臣下との会話にも気遣いを忘れません。ある意味では、このような普段の気遣いがあったからこそ、臣下の反乱も無く中国史上の最高の治世である「貞観の治」が達成できたものと思われます。
先ず発する側からの言葉を考えてみます。
相手側に恥辱を与える目的や攻撃を意図する言葉とは違って、こちらが気付かないうちに相手の屈辱感を引き出してしまう場合の言葉は、要注意となります。
例えば、年下の者から“君”付けで呼ばれたりすれば、相手の屈辱感情は激しいものになります。年功序列が崩れつつある日本社会ですから、自分よりも年上の部下を持つケースも多くなりますが、社内の身分関係だけで“安易な君付け呼称”をしている上司では、身内に敵(獅子身中の虫)を作ることになります。このレベルの言葉配りでは、役職者としては失格となります。
「部下への欠礼は、獅子身中の虫を育てる」(巌海)
過去の歴史を振り返っても、実力があっても気遣いに欠ける者は、なかなか最終的な成功者に成れていません。その代表例は、臣下光秀の恨みを買い本能寺の変で殺された信長ですが、興味深いのはそんな信長であっても、難敵武田信玄に対しては礼を尽くした贈り物をしていた事実です。
家族・部下・後輩・下請け業者に気遣いのない言葉を発しているようでは、地位や立場は上でも人間品位としては三流と自戒しなければなりません。
次に受け取る側からの言葉を考えてみます。
多くの人々から様々な言葉を浴びせかけられるわけですが、基本は大きな度量で対応し次元の低い怒哀感情を起こすべきではありません。不良仲間の因縁ケンカならいざ知らず、少々気に障る言葉でも聞き流すことができる度量が必要です。相手の意図する言葉にはまって怒り悲しむのではまずいですし、意図の無い言葉であれば自身の勝手な独り相撲をして苛立っているだけに過ぎません。我が心の主人公は自分自身であることを忘れずに、“ゆったりした度量ある対応”を心がけたいものです。
「無礼無知なる者に心を惑わされるようでは、自分も同等レベルの人物である」(巌海)