われわれが小学校で習った頃、つまり昭和十年代の前半、「明治維新の三傑」というのは西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允であった。薩摩から二人、長州から一人である。私は公家の側からも一人、岩倉具視をつけ加えるべきだと考えて、すでにこのコラムでも取り上げた。
しかし後世から見て、この四人の中でも一番偉かったのは大久保ではなかったかと思えて仕方がない。東南アジアの新興国の人が「どうして日本人の間では大久保より西郷の方が人気があるのか分からない」と言っているという記事を読んだことがあった。
なるほど新しい国造りをする外国人から見れば西郷は折角作った新政府に叛乱した人だし、木戸も途中で下野。つまり政府から離れたりしている。
これに反して大久保は明治十一年(一八七八)に暗殺されるまで、公武合体論から討幕論に進み、そのために薩長連合を成功させ、明治天皇より幕府討伐の密勅をいただき、王政復古・明治政府の成立までその中心的な推進力であった。
明治政府ができてからも、新政府の中心にいて廃藩置県を実行し、日本を近代的な国家にするための税制、産業振興、官僚制度など、すべての種類のインフラ整備の采配を振るった。
外交的には台湾処分について清国と交渉して日本の主張を認めさせ、内部的には、佐賀の乱、萩の乱、西南戦争をすべて制圧し、新政府に対して武装蜂起する勢力を一掃して明治政府を磐石なものにしたのである。
この幕末から明治十一年までの動乱の間に、大久保が常にその歴史の動因の中心から離れたことがない、というのは驚くべきことである。西郷隆盛が途中で自殺未遂をやったり、何度も島流しになったり、明治政府から離れたりしたのと対照的である。
大久保は西郷の三歳下で、木戸の三歳上である。生まれた所は鹿児島県の甲突川の東の鍛冶屋町であった。「甲突川の東」というので大久保は号を「甲東」と言った。
この近くから西郷隆盛と、日露戦争の陸の最高指揮官大山厳元帥、海の最高司令官東郷平八郎元帥も生まれている。ほんの猫の額のような狭い区域からこれだけ世界史的な偉人が出るということは稀であろう。
薩摩藩では英明な斉彬が病死すると西郷は僧月照と共に投身自殺を試みたが助けられ島流しになる。大久保は西郷の忠告に従って暴発せずに藩論を動かす道をえらぶ。
そして今や藩公の父として実力者になった島津久光にとり入る為に、久光の好きな囲碁まで習った。そのおかげで久光に用いられ、元来、有能な大久保は間もなく政務に関与する地位に上った。
そして久光の公武合体論の推進者として働くことになる。西郷を島から呼び戻させたのも大久保である。しかし西郷は「久光のような井の中の蛙が京都に出兵してもダメだ」と思っているから、結局、また島流しになってしまう。
西郷は最善を進もうとし、大久保は最善が可能でない場合は次善の道で我慢するところがあった。これは西郷と大久保の性格の差である。この粘り強い性格のおかげで、大久保はその後、一度も政治の中心から離れたことはない。
あの傲岸不実な土佐の後藤象二郎でも「大久保と話していると実に岩にでもぶつかったような心持ちがする」と言っていたそうである。徳富蘇峰は大久保のことを大体次のように言っているが、正しい観察ではないだろうか。
「大久保は能弁でも達弁でもないが、言うことは條理を畫し、力があり、一度言い出したら、それが徹底するまで金梃子でも動かない。その底力の強いこと、腰の強いこと、持ちこたえの強いこと、押す力の強いこと、それは天下無敵であった。さすがの西郷も大久保には最後の相撲で投げ出されてしまった。」
西郷が薩摩で兵を挙げたとき、政府内ではみんな震え上がってしまった。大久保だけはその西郷を「困った癖のある男だ」と見て、断固討伐の方針を出し、揺らぐことがなかったのである。
渡部昇一
〈第23
「“政事家”大久保利通」
勝田 政治 著
講談社 刊
本体1,500円