第二次朝鮮出兵の途中で秀吉は死んだ。その後の政治は五大老、五奉行で行うことになった。念のために言っておけば五大老とは徳川家康、前田利家、小早川隆景(彼の死後、上杉景勝)毛利輝元、宇喜多秀家である。
いずれも代表的大大名であり、豊臣政権の実力ある相談役ではあっても、日常の実務を行うのではなかった。日常の政治事務、つまり内閣に当るような仕事は五奉行がやっていた。
事実、五奉行は秀吉の政治執行機関であるから、秀吉が実質的に天下統一を成しとげて関白になった天正十三年(1585年)頃にすでに発足している。これに反して五大老の方は、秀吉が晩年に、自分の幼児秀頼の後見を頼むという意味で作ったので、文禄四年(1595年)のことであった。
つまり五大老・五奉行といっても、五奉行の方が十年も古い制度であり、秀吉が関白になってからのすべての行政は、この五奉行が中心になって行われたのである。豊臣政権を会社にたとえるならば、秀吉が社長で五奉行が取締役である。この取締役のうち、石田三成の実力はぬきん出ているから、石田三成がただ一人の専務取締役、他の四人が常務取締役に当るといってよいであろう。
五大老は大株主の相談役である。秀吉の部下の諸大名は、福島正則でも加藤清正でも、それぞれの支店をまかされた取締役支店長ぐらいである。本店の業務は五奉行がやる。その筆頭専務が石田三成と考えておけばだいたいの見当がつく。
もちろん石田三成も戦国の武将であるから戦場でも大いに働いている。柴田勝家を破った賤ヶ岳(しずがだけ)の合戦でも大谷吉継らと奮戦している。後世「賤ヶ岳の七本槍」というのもかなりいい加減で、福島正則も、大谷吉継も石田三成も入っていない。入っていないのは後に徳川家に潰されたからであろう。
一説には元来は「賤ヶ岳の九本槍」といわれ、これには石田三成も大谷吉継も入っていたとされるが、関ヶ原の戦いで家康と戦った人間をたたえることは徳川時代には差し障りがあったのだろう。事実、徳川時代に石田三成をほめた文献は皆無と言ってよく、例外的に評価しているのは水戸黄門こと徳川光圀だけである。彼はこう言っている。
『三成は憎むべき人間でない。人はそれぞれ自分の主君のために忠義を蓋すということなのだ。志を立てて、事をなした者は、たとえ敵であっても憎むべきではない。これは、君臣ともに心得ておかねばならぬことである。』
水戸光圀は何しろ御三家の人だから、三成を弁護するようなことを言っても幕府のおとがめはなかったのである。
三成は堺奉行をやっていたが秀吉の九州征伐に従軍、25万の大軍のために―――日本はじまって以来の大軍のために―――食糧・弾薬など、少しの遅滞もなく補給した責任者の中心は三成であった。
日本軍は明治以来、兵站(へいたん)、つまりロジステックスを疎かにする悪癖があり、この前の戦争でその弱点は極限に達したが、その一因は、石田三成のような才能を顕彰する習慣が、徳川時代に消されていたことにあるのかもしれない。
また秀吉の小田原征伐、つまり北條攻めの時も、三成は館林城や忍城(行田)を落としている。あざやかな戦勝とはいかなかったように見えるが、秀吉は満足して、その後の陸奥の検地を三成と浅野長政にまかせている。
秀吉は朝鮮遠征軍にも三成を派遣しているから、秀吉の目には三成は優秀な参謀将校に見えていたに違いない。なかでも三成の能力を十分に発揮したのは、秀吉死後に、朝鮮にいた全部隊を無事に引き揚げさせたことである。太閤死後の状況の中で、しかも軍事情勢不利の中で、大量の船を手配するなど、一切の指揮をとったのは三成であった。
秀吉から見ると戦場に強い武将などいくらでも見つけることができた。しかし検地などの行政事務や大軍を動かすロジステックスをちゃんとやれる部下こそが貴重だったのだ。それで三成は参謀本部勤務になる。
それが朝鮮で明の大軍を相手に死闘をやってきた実戦部隊長たちの気にくわない。秀吉死後の加藤清正や福島正則の三成に対する反感はそこにある。家康はその亀裂を見て取り、そこに楔(くさび)を打ち込み、豊臣家を潰したのである。
秀吉が死んだあと、秀頼の天下になると誰が信じたろうか。いつまでも家康が秀頼の下にいると誰が信じたろうか。家康はすでに250万石だ。前田家だってその半分にも及ばない。家康を倒さなければ豊臣家の明日はない、と確信したのは三成一人である。
関ヶ原の戦いは三成が十分勝てる戦だった。明治の日本陸軍の指導にやってきたメッケルも、関ヶ原の布陣を見て、「西軍の勝ちだろう」と言った。敗れたのは小早川秀秋の裏切りだけのためである。更に言えば、グズな毛利輝元が大坂城から出てこなかったからである。
20万石足らずの中大名の三成が、十倍以上の大大名の家康を向うにまわして、十分勝てる戦争を構築したのだ。三成と一緒に仕事をしたことのある人は彼の側についた。いざ敗れる時も、石田軍は最もよく戦った。これは三成がいかによい殿様であったかを示すものである。とにかく「天下分け目の戦」をしたことのある日本人は三成と家康しかいないのである。
渡部昇一
〈第5人目 「石田三成」参考図書〉
「小説 石田三成」
童門冬二著
成美堂出版刊
本体552円