卓越した選手起用で「魔術師」と呼ばれた三原脩(おさむ)は、プロ野球監督として6度のリーグ優勝、うち4度の日本一を果たしている。
西鉄では監督就任後、まず、打の中心に青バットの大下茂をトレードで得て据えた。四国に超高校級の逸材ありと聞けば、その中西太を説得して入団させた。
だが三原の真骨頂は、埋もれがちな人材の個性と潜在能力を見抜き、チャンスを与え、育て上げたことにあった。
水戸商業から入団した豊田泰光は、打撃センスはあるが、遊撃の守備に難点があった。それでも入団1年目から三原は使い続けた。
土壇場でのタイムリーエラーで勝ち星をふいにした投手から、「豊田を使わないでほしい」と直訴を受けても方針は揺るがない。
「エラーで勝ちを失ったゲームより、豊田の打棒でどれだけ助けられたかを考えろ」。
豊田もエラーをすればこそ打撃で挽回しようとする。そして最強の二番打者として結果を出した。「欠点を見る前に長所を活かす」。三原の人材起用の要点だ。
昭和33年、三連敗から四連勝と奇跡の逆転優勝の日本シリーズで七試合中六試合に登板、完封一試合を含む四勝すべてをあげた稲尾和久も三原にその才能を見出された。
大分県別府の無名高校を出て、昭和31年のシーズン前に合宿所に現れたひょろりとしたこの若者への評価は、「投手として見るべきものはないが、コントロールはいい」。バッティング投手としてオープン戦に連れて行く。
来る日も来る日も、腕も折れるばかりに打撃投手を務める。若者はめげなかった。
一軍の主力を相手にコントロールにさらに磨きをかけた。その目の輝きに感じるものがあったのか、三原は稲尾を登板させてみる。ぴしゃりと押さえる。
繰り返すうちに無名投手が入団一年目で押しも押されもせぬエースに育った。
昭和35年、セリーグで万年最下位の大洋に移った三原。ここでも、またゼロからのチーム造りだ。
大学野球から得た秋山登、土井淳のバッテリーに安定感はあったが、問題は内野、とくに遊撃手に人材がいないとみると、シーズン途中に、近鉄の二軍で干されていた鈴木武を「こいつは使える」と見抜いて獲得する。
「どうだ、おれのもとでやってみんか」。見込まれた鈴木は守備に打撃に“いぶし銀”の活躍を見せる。三原は、就任一年目の大洋を、いきなりリーグ優勝、さらに日本一に導いた。
「コンスタントに3割を打つ、いつも20勝する一流選手でなくともよいのだ。ここぞというときに踏んばる。ときに応じては一流をしのぐ二流選手。そういう選手が私を助けてくれる」。
三原が名付けた「超二流選手」活用論だ。
どんな花も咲き時、咲かせ時を待っている。それを見抜くリーダーの元で働くほどの幸せはない。
※参考文献
『風雲の軌跡 わが野球人生の実記』三原脩著 ベースボールマガジン社
『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ(上)(下)』立石泰則著 小学館文庫
『プロ野球、心をつかむ!監督術』永谷脩著 朝日新書
※当連載のご感想・ご意見はこちらへ↓