関ヶ原の合戦の帰趨を制したものは、合戦の佳境で西軍の主力の一人、小早川秀秋が踏み切った寝返りであると広く信じられている。
確かに激戦の最中に、家康に内応した小早川軍の8千の軍勢が側面から西軍を襲い、西軍は一気に総崩れとなった。
しかし、戦いの全般を見渡せば、三成が総大将に担ぎ出した毛利輝元の動きを封じたことが何にもまして戦いの行方を決めた。
「敵のトップを密かに味方につければ、戦わずして勝ちじゃ」。とんでもないことを考えつくのが家康という男だ。そして実現してしま
う。
毛利に対する調略工作は、毛利の元家臣、安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)が輝元担ぎ出しに動いた直後の7月から始められた。
「恵瓊のやつめ、小賢しく動きおって。しかし毛利を動かす人物は別におる」と見抜く家康は、黒田長政を通じて工作を開始する。
ターゲットは、毛利分家筋の吉川広家(きっかわ・ひろいえ)(出雲)だった。
輝元と従兄弟同士である広家は世の流れを読めた。乱世にあって本家安泰を第一に願う広家は家康に楯突く危険を察知し、恵瓊の動きを嘆いているのを黒田長政が知った。
「西の総大将となったのは恵瓊に乗せられたまで。輝元公は詳細をご存じないということで済ますのは如何か」。長政は豊臣の寵臣、福島正則を籠絡した策謀家だ。「輝元は知らなかった」という方便で、広家と家康の間を取り持った。
広家はその旨、家康に書状で訴えた。「兵を動かさぬように輝元公を説得するので、毛利領の安堵を家康殿が約束されますように」
現実に輝元が大坂城に入り、西軍の指揮を取る情勢で、乗せられただけというのは方便であると誰にもわかる。家康はそれに賭けた。
家康が仲介の長政に宛てた8月8日付けの書状が残っている。
「吉川殿の書状の趣旨は了解した。よろしく取り計らうように」
同月17日、長政は広家に返書をしたためる。
「家康殿も了解された。しかし、戦いが決してからでは遅い。早く態度を表明されるように」。早急な決断を促すのを忘れなかった。
決戦前日の9月14日、広家と毛利の家老・福原広俊、徳川方は重臣の井伊直政らとの間で誓約が交わされ、毛利不参戦が決まった。
同夜、大垣城を出て関ヶ原に到着した三成は、密かに進行していた調略の経緯も知らず、配下の将に布陣を命じた。
(この項、次回へ続く)