本能寺の変で、裏切りともいうべき仕打ちを受けた政敵の織田信長が消えた瞬間こそ、四国の覇者、長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)にとって地歩を固めるチャンスであったが、元親は逃した。
「情勢を見極めた後に動く」との慎重な判断も時には正しいが、時代は生き馬の目を抜く乱世である。天下を狙うなら徳川家康が見抜いたように、力の空白こそ活かすべきだ。
二か月遅れで軍を動かした元親は、曲がりなりにも阿波、讃岐、伊予の旧織田勢力を押さえ込み四国を制覇した。
しかし、その間に豊臣秀吉は、山崎の合戦で明智光秀をやぶり、さらに織田家の跡目争いでは、清州会議の主導権を握っている。
「天下の情勢を見極めて」というなら秀吉に秋波を送り、まずは四国全土の安堵を受けるのが政治の常道である。元親はここでも重大な過ちを犯す。跡目争いで秀吉と対立した柴田勝家に信義を通じるのである。
秦の始皇帝の末裔である秦(はた)氏の流れを自負する長宗我部である。その棟梁として、「どこの馬の骨とも分からぬ秀吉などに従えるか」との反感があった。「敵の敵は味方」とばかりに柴田勝家方についたが、天下の形勢は、どう考えても秀吉に有利であった。
果たして賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で勝家を破った秀吉の天下となった。
しかも、畿内勢力にしてみれば、海の道としての瀬戸内海に長い海岸線をさらす四国は、どこからでも攻め込める。攻めやすく、防御しにくい地勢だ。
せめて、畿内への橋頭堡としての淡路島を確保すれば、防御力も高まるが、それも元親は怠った。
「敵対する四国は放置できぬ」と秀吉は四国討伐に乗り出す。
天正13年(1585年)6月、秀吉軍は、淡路・阿波、讃岐、伊予の三方面から10万以上の大軍を一気に上陸させ、侵攻した。
ひとたまりもなく長宗我部軍は二か月で白旗を挙げた。長宗我部家は、土佐一国に押し込められる。家を潰さなかったのは、「味方となるなら長宗我部の兵は使える」という秀吉のしたたかな戦略による。天下統一に向けた九州の島津征伐の先鋒として長宗我部軍は送り込まれ、長男信親をはじめ多くの家臣を失うこととなる。
後日、秀吉は元親を京都の聚楽第に呼んだ。そして扇を開いて戯れに尋ねる。
「元親殿は本当に天下を取る気があるのか」
「男としてどうして四国だけで満足できましょうや」と気色ばむ元親に、秀吉は「その器量ではかなうまい」と呵々大笑した。「秀吉様のいる悪い時代に生まれて、天下の主になり損じました」と元親。もはや負け犬の遠吠えであった。