- ホーム
- 指導者たる者かくあるべし
- 逆転の発想(15) 戦いは避けるべきだが戦うなら最善の準備を(山本五十六)
航空兵力に着目
太平洋戦争開戦時の日本帝国海軍連合艦隊司令長官は、山本五十六であった。終始対米避戦論者であったが、戦うとすれば、これからの海軍の主兵力は戦艦ではなく航空戦力にありと見抜いていた山本は、空母と艦載機からなる機動部隊の充実を進めていた。
その成果が1941年12月8日、緒戦の真珠湾奇襲作戦の成功で実を結ぶ。その華々しさの陰に隠れているが、その二日後、南方のマレー半島沖で戦われたマレー沖海戦も世界の海軍関係者に衝撃を与えた。日本軍のマレー半島上陸作戦を阻止すべくシンガポールから出撃した英国海軍の最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを主力とする英艦隊に、ベトナムの基地を出撃した日本海軍の陸上攻撃機85機が殺到し、両艦を撃沈した。
真珠湾攻撃は、湾内に停泊中の艦船に対する奇襲攻撃だったが、マレー沖海戦は、戦闘態勢にある戦艦に航空兵力だけで勝利した戦いで、各国に航空機の威力を再認識させた。英米は以後、航空機の増産に邁進することになるが、日本はその意味を正しく認識できないまま、終戦を迎える。
大艦巨砲主義への疑問
日露戦争中の1904年に海軍兵学校を卒業後、砲術畑で軍務を開始したが、第一次世界大戦で航空機が登場すると、自ら望んで航空畑に進み、航空戦力の充実に奔走する。しかし当時の海軍内では、日露戦争の日本海海戦での大勝利に酔いしれて、海軍の要務は艦隊決戦での勝利という夢から覚めず、あくまで対艦巨砲主義にこだわった。
挙句の果てに海軍は、46センチ砲を8門も備える世界最大の戦艦「大和」の建造にとりかかる。山本は、これに異を唱え、「その資金があれば、航空機は何機作れるか」と主張したが、退けられている。
山本は、ワシントン、ロンドンの二次にわたる海軍軍縮条約の過程で、制限外の航空機の充実こそ、国家防衛力のカギを握ると見て、上層部に具申するが、相手にされなかった。海軍は、日本海海戦勝利による「東郷平八郎の呪縛」から逃れられず、日本の海軍軍備を厳しく制限しようとする米国への不満は、「対米決戦やむ無し」という極論に向かってしまう。
日米の国力の差は、とても長期戦を戦える状況ではないが、大勢は、「日露戦争もロシアとの国力の差をはねのけて勝利したではないか」となって行く。
軍備は戦争を避けるためのもの
山本の発想では、軍備はあくまで抑止力である。その強力な装備を公開することで相手に不要な攻撃、海戦を思いとどまらせる力である。北朝鮮が弾道ミサイル発射実験、核実験を誇示して見せるのも抑止力の発想だ。しかし、例えば戦艦大和建造はその計画は最後まで国内外に伏せられた。一旦ことあれば、突如戦場に現れる秘密最終兵器、つまり戦う道具としての発想しかない。しかも巨艦建造は戦力として時代遅れとなりつつあったにも関わらずだ。
真珠湾攻撃のひと月半前、山本が連合艦隊司令長官として万全の準備をしてきた奇襲作戦の図上演習が、海軍大学校で行われた。演習後、東京学士会館で開かれたある会合で、山本はある参加者から日米開戦の可能性について聞かれた。山本は明治天皇の御製の歌を示すことで、それに答えた。
「仇浪(あだなみ)のしづまりはてて 四方の海
のどかにならむ 世をいのるかな」
不戦の意を示した御製の引用である。しかし、機動部隊に出撃を命じざるを得ない。軍人としての限界ではあるが、惜しむべきは、プロとしての軍人の判断を汲み取る国のリーダーがいなかったことだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『山本五十六再考』野村實著 中公文庫
『零戦と戦艦大和』半藤一利ら共著 文春新書