寛政の改革と松平定信
商工業の発展を利用して幕府財政の立て直しを目指した老中・田沼意次(たぬま・おきつぐ)の革新的な試みが、相次ぐ天災と飢饉によって頓挫した後、老中に抜擢された松平定信(まつだいら・さだのぶ)は、農村復興に焦点を定めた農本主義的政策に回帰し、幕府権威の再構築に乗り出す。
定信が行った政策は、その年号をとって「寛政の改革」として評価されている。しかし、権威回復を目指す改革は往々にして復古主義的で時代に逆行する。寛政の改革もその例に漏れない。時代は、平和を謳歌した約200年の間に大きく変化していた。商品作物の流通は拡大し、土地の縛りから放たれた人々は農業を離れて工業生産に従事するようになっている。生産能力の向上と並行して、諸藩は幕府からの独立志向を強め、流通を取り仕切る豪商たちも成長していた。
世の動きに逆行する定信の改革は、農村の復興(米生産の向上)にとらわれるあまり、商工業者を抑圧し、農民にも米以外の商品作物の作付けを制限した。物価の高騰で借入金が膨らむ武士の生活安定のため、借入金の返済免除まで打ち出し、経済構図はかえって破綻する。社会の発展に寄り添う田沼時代の先進性は、影も形も消え失せた。
徳川家康が築いた幕藩体制の綻びは、時代に合わない経済支配態勢の揺らぎがもたらしたものである。それが朝廷(天皇)と幕府(将軍)という二重権力の構図にも大波が及ぶようになる。軍事力を背景に圧倒的な支配権威を持ち続けてきた幕府に対して、朝廷の権威が急速に浮上し始める。朝廷が幕府に取って代わる政治力と政治構図を再構築しはじめる。幕末、明治維新への胎動が始まる。
ロシアの脅威
さらに定信の時代には、「徳川商店」の存続に向けて、こうした内政の諸課題に加えて、対外関係の脅威への対処方針も問われるようになった。帝政ロシアの船が日本沿岸にしきりに姿を現すようになる。ロシア船の南下は、田沼時代に、蝦夷地(北海道)周辺で問題となっていた。田沼の対処方針は毅然としている。当時、半外地として認識されていた蝦夷地の開発を急ぎ、蝦夷地沿岸の防備強化を松前藩に命じている。さらに、ロシアの狙いが日本との商取引にあるのなら、交易で実利を上げることも視野に入っていた。
田沼の重商主義的思考ではそうなる。実際に当時のロシアは、沿海州からさらに東に進みカムチャッカ半島からアリューシャン列島の開発に乗り出しており、物資の補給地として日本との関係を結びたがっていた。
幕末の開国問題は、米国ペリーの黒船来航にはじまると思われているが、実はその半世紀以上前に、ロシア船の来航がきっかけだったのだ。田沼の失脚で、彼の外交、通商政策は未完に終わったが、彼の国内経済政策と同様に非常に合理的なものだった。
さて定信時代の1792年(寛政4年)9月、ロシアのラスクマン(陸軍中尉)を使節とするロシア船が根室にやってきた。「漂流日本人を送り届けにきたので、江戸へ回航したい」との申し出だった。幕府と直接交渉し修好条約を結びたいとの意向は明らかだった。
松前藩から急報を受けた幕閣たちは対応を協議するが、定信が下した結論は、なんともその場しのぎだった。
決断の遅れが招く危機
幕府は、ラクスマンに国法書を交付し、「中国、オランダ、朝鮮、琉球以外の国と新たな関係を結ぶことは国法で禁止されている」として追い返した。その上で、「江戸は受け入れられないが、通商を望むなら、外交交渉の開港地である長崎へ回れ」と、入港許可証(信牌=しんぱい)を与えた。ロシアの真意を確認するための時間稼ぎでしかない。
果たしてロシアは12年後の1804年(文化元年)に政府特使の外交官レザノフを乗せた軍艦を長崎に来航させ、定信が与えた信牌を示して通商を求めた。すでに定信は老中を辞していたが、幕府は、レザノフ一行を半年の間、長崎に幽閉した後で、通商の要求を拒絶した。12年間、外交方針も定めず放置していたことになる。
このツケが、開国か攘夷実行かで国を揺るがすじたい招く幕末の政争と、老舗の崩壊を招く。「田沼時代があと少し続いていれば」という筆者の悔恨の思いは、ここでも理解いただけるだろう。
「決断できない政府が招く危機」は、時代の変化に敏速に対処できないという、この国が現代まで引きずる悲しい性(さが)なのだろうか。
日銀は、大規模な金融緩和の継続にこだわり、欧米との金利差は広がるばかりで円ドル為替レートは下落を続けている。危機に至らぬことを願う。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『近世の三大改革』藤田覚著 山川出版社
『攘夷の幕末』町田明広著 講談社学術文庫
『日本の歴史18 幕藩制の苦悶』北島正元著 中公文庫