繰り返しになるが、組織を率いるリーダーは、まず人材を得なければならない。三国時代の中国の覇者、曹操は、出身門地を問わず一芸に秀でた人材を集めて天下を取った。「探してくれば、あとは私が適所で使う」と。
しかし、優秀な人材は、江戸幕府中期の人事ご意見番であった荻生徂徠の言を待つまでもなく、一癖もふた癖もある。優れたリーダーは、そうした“くせ者”を使いこなす猛獣使いの術が求められるのである。
野村克也は、南海ホークスのプレイングマネジャーだったころ、球界屈指の左腕、江夏豊と出会う。
阪神時代に巨人の王、長嶋と幾多の名勝負を繰り広げてきた江夏だったが、ピークは過ぎ、1976年に古巣を追われるようにして南海にやってきた。先発完投型の彼は、昔日の夢を追いかけていたが、酷使された腕は血行障害に侵され長いイニングを投げられなくなっていた。その投球術を活かすにはリリーフに回るしかないが、江夏のプライドが許さず、頑なに拒み続けた。勝ち星があげられない彼は、見るからにふてくされていたが、周囲は腫れ物に触るように接した。
ある日のゲームで、やる気のない投球を見せた江夏に、野村は雷を落とした。
「お前、八百長をやっているんじゃないだろうな。そうでなくても、世間はそういう目でお前を見ているんだ」。
かつて、球界の黒い霧事件が起きた時に、彼も名が挙げられたことがある。
「そんな、言いにくいことを言われたのは、あんたが初めてや・・・」
プロ野球で禄を食む人種は、多かれ少なかれ、子供の頃から地域の天才野球少年として育ってきた。少年時代は四番で投手、それが定番である。そのまま投手として生き残った者は江夏に限らず皆自信家だ。並の監督の意見など聞かない。叱られたことなどない。
「指導者の愛情とは、やさしく接するだけではない。ときにはきびしく叱り、いいにくいことをはっきりいうことも必要なのだ」と野村。この日を境に江夏は野村の意見に耳を傾けるようになった。
「メジャーでは先発、中継ぎ、抑えの分業制が確立している。どうだ、お前が日本球界に革命を起こしてみないか」
「革命」という言葉に意気を感じたのか、その後のセーブ王・江夏のクローザーとしての活躍はいうまでもない。
一流であればこそ、周囲はだれも助言はしない。苦境に陥った孤独な一流を導けるのは、トップしかいないのだ。