賃金のデジタル払いの導入を考えている田中社長は、賛多弁護士のもとを訪れました。
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田中社長:先日、日常的にキャッシュレス決済を利用している従業員から、賃金をデジタル払いして欲しいと言われました。
当社としては、従業員の要望にはできる限り応えたいと思っていますので、賃金のデジタル払いを導入したいと考えています。
そこで、今日は、賃金のデジタル払いについて教えていただけますか。
賛多弁護士:わかりました。まず、賃金のデジタル払いについてご説明する前に、賃金の支払いに関するルールをご説明します。
労働基準法第24条には、次の5つの原則が定められています。
①通貨払いの原則
②直接払いの原則
③全額払いの原則
④毎月1回以上払いの原則
⑤一定期日払いの原則
これらの原則を「賃金支払いの5原則」といいます。
「①通貨払いの原則」の「通貨」とは、日本で強制通用力を持つ貨幣(いわゆる硬貨)及び日本銀行が発行する銀行券(いわゆる紙幣)をいいます。ただし、「①通貨支払いの原則」には例外も存在し、労働者から同意を得た場合に、労働者が指定する銀行その他の金融機関の労働者本人名義の預貯金口座への振り込みなどにより賃金を支払うことが認められています(労働基準法施行規則7条の2)。
田中社長:今や当たり前になっている従業員の銀行口座等への賃金の振込みは、「①通貨支払いの原則」の例外として認められているに過ぎないのですね。
賛多弁護士:そのとおりです。最近では、キャッシュレス決済の普及や送金サービスの多様化のニーズに対応するため、「①通貨払いの原則」の例外として、労働者が同意した場合に、厚生労働大臣の指定を受けた資金移動業者(以下「指定資金移動業者」といいます。)の口座への資金移動による方法による賃金の支払い(デジタル払い)も認められるようになりました。
指定資金移動業者とは、キャッシュレス決済サービスを提供する業者等のことをいいます。いわゆる「○○ペイ」などのことです。
田中社長:どのような資金移動業者が厚生労働大臣の指定を受けているのでしょうか。
賛多弁護士:資金移動業者は、令和5年4月1日から厚生労働大臣に指定申請を行うことができます。申請を受け付けた後、厚生労働省による審査が行われ、基準を満たしている場合にはその事業者を指定資金移動業者とします。ただし、この審査には、数か月程度の時間がかかることが見込まれます。
現時点(令和5年5月末時点)において、指定資金移動業者の公表は行われていません。指定資金移動業者に関する情報は、厚生労働省のウェブサイト上に掲載される予定ですので、賃金のデジタル払いを導入する際には、当該資金移動業者が厚生労働大臣によって指定されているかどうかの確認が必要です。
田中社長:ちなみに、会社は、賃金のデジタル払いを必ず導入しなければならないのでしょうか?
賛多弁護士:賃金のデジタル払いは、あくまで賃金の支払いや受け取り方法の選択肢の一つですので、必ずしも導入しなければならないものではありません。
田中社長:キャッシュレス決済を利用していない従業員もいるのですが、賃金のデジタル払いを導入した場合には、全ての従業員が賃金をデジタル払いで受け取らなければならないのでしょうか?
賛多弁護士:そのようなことはありません。賃金のデジタル払いを導入した場合でも、全ての労働者の現在の賃金支払い・受け取り方法の変更が必要になるわけではありません。労働者が希望しない場合は、これまでどおりの方法によって賃金を支払う必要があります。
また、デジタル払いでの賃金受け取りを希望する労働者でも、賃金の一部をデジタル払いで受け取り、残りの賃金を銀行口座等で受け取るといったことも可能です。
田中社長:日常的にキャッシュレス決済を利用する従業員や入国直後に銀行口座を開設することができない外国人労働者等、賃金のデジタル払いの需要はありそうですね。使用者が賃金のデジタル払いを導入する際の必要な手続きについて教えてください。
賛多弁護士:賃金のデジタル払いを導入する際は、労働者の過半数で組織する労働組合または労働者の過半数を代表する者と、労使協定を締結する必要があります。この労使協定には、賃金のデジタル払いの対象となる労働者の範囲や取扱指定資金移動業者の範囲等を明記します。
その上で、使用者は、デジタル払いでの賃金受け取りを希望する個々の労働者から同意を得ます。同意書には、デジタル払い以外にも預貯金口座又は証券総合口座への賃金支払いの選択肢があることを提示する等の留意事項を説明する必要があります。厚生労働省のホームページに同意書の雛型が掲載されているので、そちらを参考にしていだだくと良いかと思います。
田中社長:わかりました。賃金のデジタル払いを導入にするにあたって不明点等がある際には、また相談させてください。本日はありがとうございました。
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キャッシュレス決済の普及や送金サービスの多様化のニーズに対応するために、令和5年4月1日から労働基準法施行規則が改正され、「①通貨払いの原則」の例外として、賃金のデジタル払いが認められるようになりました。
賃金のデジタル払いは、労働者にとっては、賃金の受け取り方法の選択肢を増やすものですのでメリットがあると考えられます。
他方で、資金移動業者の口座への振り込み上限額は100万円以下という制約があることや、使用者の事務処理の負担が増加する等のデメリットもあります。
賃金のデジタル払いの導入にあたっては、メリットとデメリットを踏まえた上で判断することが必要であると考えられます。
※参照資料
厚生労働省「資金移動業者の口座への賃金支払(賃金のデジタル払い)について」
執筆:鳥飼総合法律事務所 弁護士 橋本充人