経済と軍事の激動から始まる貴族政の破綻
前回まで見たように、近代民主政治(デモクラシー)の理念と実践は、アメリカ合衆国建国の過程で生まれたが、紀元前6世紀の末葉に早くも、今につながる自由市民による民主的な国家統治(デモクラティア)が、古代ギリシャの地で営まれていた。それは、地中海世界の覇権を古代ローマに譲るまで続き、近代民主主義制度をもしのぐ、あまりに高度なものだった。
古代民主政は、ポリスという都市国家アテネの地で産声をあげ、育まれていった。
古代ポリス国家は、地中海沿岸に最盛期で約1,000か所以上も存在し、その広さは平均すれば、東京23区の一つの区の広さだ。アテネは広大な農地を控えていたが、それでも神奈川県ほどの広さの農民国家だった。
古代国家の常として、建国当初は神の系譜を引くとする王が聖なる権威による統治者として現れ、やがて富裕な門閥貴族たちが王にとって代わって政治決定を握る。ポリスの重要役職は貴族たちが世襲し、政策決定機関の長老会議も、貴族が独占した。
貴族支配の統治構造の歪みは、経済発展と軍事構造の変化によって始まった。アテネについて見ると、土地は痩せていたが、オリーブ、ブドウの生育には適しており、やがて、オリーブオイル、ワインの輸出によって富裕な農民が育ち、富を独占していた貴族層との経済格差が小さくなってくる。
ポリスは閉鎖的な空間で、生き残りのため隣接するポリス同士の武力衝突は日常茶飯事だった。当初は、豊かな貴族層が馬と金属製の武具で身を固めた騎士として戦場の主役を担ったが、経済力をつけてきた中農層が自前で金属の胸当てなどの武具を用意して重装歩兵として従軍し、騎士に代わって主戦力となっていく。
当然、平民(市民)の政治的発言権は増大した。
クレイステネスの国制大改革
いつの時代も、政治的変革は、経済構造の劇的変化から始まるものだ。それでもアテネでは、門閥貴族が政治、祭祀、軍事、司法の権限を手放さず、地縁、血縁の頂点に立って平民を強引に統治しようとした。さらには貴族間の抗争(党争)が激化し、その勝者が有無を言わせず独裁制を敷くに至る。
いつの時代、どんな組織でも起きがちなことだ。支配体制の崩壊が近づくと、起きていることの本質が見えず、混乱の収拾のために、「国民(社員)の支持を得ている」として強権を発動したがるリーダーが現れる。
相次ぐ支配階層の抗争は、軍事大国スパルタの王と軍の介入を招き、ついに民衆は立ち上がる。呼応するように貴族の一人、クレイステネスは平民階層の不満と主張を取り込んで実権を握ると大改革に乗り出した(紀元前508年)。
事態の本質を理解していたクレイステネスは、まず、出自や貧富に関わらず全市民に平等に参政権を与える「法の平等」を掲げた。
さらに、貴族支配を可能にしていた、旧来の部族制を廃止した。兵の拠出や参政権の基本となる最小単位を、血縁によらない地域ごとの「区」とし、貴族の支配権が及びにくい区を組み合わせて新行政単位の「市民団」に組み替えた。新しい区への庶民の帰属意識と互助、忠誠心を積み上げて、国家アテネへの忠誠心へと組織した。
奇しくも、前回見たアメリカのデモクラシーが、地縁、血縁と離れた移民たちが新天地で展開した開拓地のタウンを単位として、郡、州、連邦(国家)へと積み上げていく構図と似ている。こうした平等な自由民による末端単位から組み上げるのが「民主政」に似つかわしいのかも知れないと感じ入る。
より多くの人びとによる統治
紀元前431年、アテネの民主制を絶頂期に導いた政治家、ペリクレスは、その国制を讃える有名な演説を戦没者の墓前で行った。歴史家のトゥキュディデスが書き留めている。
「その国制は、一握りの人びとではなく、より多くの人びと(デモス)によって統治されるがゆえに、その名を民主政(デモクラティア)と呼ぶ」
デモクラティアが、どのようにアテネを導き、素晴らしい文化を花開かせたのかは、次回にみる。(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『民主主義の源流 古代アテネの実験』橋場弦著 講談社学術文庫
『スパルタとアテネ 古典古代のポリス社会』太田秀通著 岩波新書