楠木建が実際に会った名経営者ーー「出井伸之」
前回は、日本のオールタイム経営者番付で東西の横綱を張る人物として松下幸之助と小林一三を取りあげた。この二人は戦前から高度成長期までの日本を牽引した経営者で、僕はもちろん会ったことがない。今回は僕が仕事を通じて実際に接した経営者、出井伸之さんについて見聞きしたことを伝えたい。
前任の大賀典雄の抜擢でヒラの取締役からいきなりソニーの社長になった出井伸之(1937‐2022)は、就任当初からデジタル技術の進展による産業構造の大きな転換を見抜いていた。ハードウェアをネットワークでつなぎ、自社のコンテンツ資産をフル活用するという構想「デジタル・ドリーム・キッズ」を打ち出した。
PC事業に再参入し、ゲーム事業を軌道に乗せ、買収後に暴走していた映画事業のグリップを取り戻した。出井は世界のスター経営者だった。スティーブ・ジョブズが「アップルをソニーのような会社にしたい」と言ったほどだ。
「あなたの論文を読んだ。手伝ってもらいたいことがある」――99年、社長兼CEOになった出井との最初のミーティングを鮮明に覚えている。当時の小さな本社ビルの社長室に入った瞬間、強烈なオーラを感じた。見た目からしてとんでもなくカッコいい。ミーティングの最中にも世界の要人からガンガン電話がかかってくる。その中には小渕首相(当時の)からの「ブッチホン」もあった。社長室長は後に社長となる吉田憲一郎(現会長)だった。
ソニーショック、そしてベンチャー・キャピタリストとしての再出発
「泥の中を進んでいくようなもんだ……」――出井はいつも厳しい顔をしていた。スター経営者の華やかなイメージと裏腹に、出井はソニーをグローバルに通用する「普通の会社」にしようとしていた。当然の成り行きとして、内部からの強固な抵抗に直面した。以前のソニーはヒット商品を連発する裏で巨大な有利子負債を抱えていた。資本効率を重視する経営への転換が急務だった。出井は取締役と執行役を分離する執行役員制を日本で最初に導入し、ガバナンスの改革に手を突っ込んだ。「執行役員」は出井の造語だ。
出井チームの仕事は毎回ヘトヘトになった。03年に大幅減益となり、株価は急落。「ソニーショック」だ。そのうちにプロジェクトは中断し、その後しばらく出井と会う機会はなかった。率直に言って、会いたいとも思わなかった。
ソニーを離れた出井はコンサルティングと投資の会社を立ち上げた。ちょっと手伝ってくれということになり、数年ぶりにお目にかかった。再会した出井はまったくの別人だった。こんなに素敵な笑顔の人なのかと驚いた。一気に距離が縮まった気がした。以来、いろいろな場で一緒に仕事をする機会を得た。
出井は水を得た魚だった。世代や立場と無関係に誰に対してもフラットに接し、直感と興味の赴くまま活動した。出井の薫陶と支援を受けた起業家は枚挙にいとまがない。出井の気質と資質にもっとも合った職業はベンチャー・キャピタリストだったのではないかと思う。
「新しいソニー」を創った男、出井伸之
ソニー復活を果たした近年の社長、平井一夫、吉田憲一郎、十時裕樹はいずれも出井が仕込んだ新規事業の経営者として頭角を現した。出井の死に際して吉田は「社長室長時代の経験と学びは、自分の人生の転機となった」とコメントした。「ソニーがグローバル企業に進化するためのターニングポイントが出井氏の仕事だった」――出井がいなければ現在のソニーはまったく違うものなっていたのは間違いない。
逝去の前年、筆者の大学院での講義のゲストに出井を招き、ソニーの経営改革について振り返ってもらった。教室に入った瞬間に、往年のオーラに学生が気圧されるのが分かった。何を考え、何をやり、なぜそうしたのか――率直な語り口に教室は感動に包まれた。
講義の後、廊下で立ち話をした。「いろいろありましたけど、四半世紀経って、だいたい出井さんが思い描いた通りになったじゃないですか」と言うと、「ずいぶん時間がかかったね。人間の世の中、そんなもんじゃないの」――ニヤリと笑った顔はたまらなくチャーミングだった。
出井時代のソニーはウォークマンやハンディカムなどの革新的商品を創らなかった、という批判がある。その通り。出井が創ろうとしたのはもっと大きなもの――デジタル時代の「新しいソニー」――だった。