袁世凱の焦りと没落
中華民国運営の主導権争いで袁世凱に敗れた孫文は、1913年、中国南部を拠点とした第二革命に失敗し、日本に亡命して再起を期したが、袁はさらに独走を強める。彼には焦りがあった。翌年に第一次世界大戦が勃発すると連合国側についた日本は青島のドイツ軍要塞を占領し、さらに山東半島へ軍を進めるとともに、日本の特権的立場を求める対中21か条の要求を突きつける。これを処理できずにいる袁世凱政権は、対日弱腰外交が批判にさらされ反日運動が高まりを見せ、反政府暴動に火がついた。さらに、彼の政治力の基盤である北洋軍内部でも反発が強まり、反袁勢力が形成される。 内外の敵にさらされた袁世凱が取った戦略は、より一層の権力の集中だった。国名を中華帝国に改め自ら皇帝に就任する方向で動き出す。1915年12月には皇帝に就任するが、内外の反発が高まり、翌年3月には帝政を撤回した。この間、中国国内は軍閥が割拠し、統一国家の体裁を失いつつあった。袁は失意のうちに3か月後に病死した。
孫文の新路線
袁世凱の後継には、北洋軍で袁の副官格で国務総理だった段祺瑞(だん・きずい)が着いたが、もはや中国は四分五裂の状況となる。清朝復活の動きも出るほどだった。
東京にいた孫文は、この間の経緯とは距離を置いていたが、段祺瑞の北京政府が日本の支援を得て武力統一の動きを見せると、政府から離れた広州に入った。旗印に掲げたのは、中華民国成立当初の憲法に基づく議会制民主主義の復活だった。
しかし孫文は、この間の政治闘争で、理想だけでは政治権力を保持できないことは、嫌と言うほど知らされていた。理想を掲げつつ、段祺瑞による武装統一におびえる地方軍閥を味方に引き入れ、軍事力を手に入れることを目指す。理想主義+現実主義での権力奪取プランを明確にした。
同年7月24日に孫文が、西南各省の軍閥指導者に送った電文が残されている。
「諸兄は、国を安定させ、共和制憲法を擁護するという点で考え方は共通しているので、さらに協力し、早期の決着を促すように希望する。我々の主張は名分が正しいので、北方でも正義を求める将兵も少なくない。諸兄の軍で国会を護衛して首都へ向かえば、直ちに大局に収拾をつけることができる。諸兄の功績は、民国とともに永遠のものとなる」
この電文が、その後、国民党軍の北伐統一の原点となった。
同年9月、雲南、広西地方の軍閥も参加した軍・政一致の広東軍政府が樹立された。
アジア解放の視点と日本への期待
その後の孫文の統一運動は挫折の連続だったが、彼は革命成就のために、長年の亡命生活で人脈を培った日本の政界、財界人に対する革命支援への期待は大きかった。
1923年11月16日付で、山本権兵衛内閣で逓信大臣を務めていた知己の犬養毅(いぬかい・つよし、後に総理)に書簡を送った。一度追い落とされた広州再奪還し北伐を再開したころである。苦難の戦いが続いていた。
「思うに列強の伝統的な政策は中国が治まって強くなるのを願わないもので、それゆえに幾度も革命に反対する行動に出たのであり、今回の私たちの行動が列強のさまざまな妨害に遭うだろうことは疑いを容れません。日本の支那に対する行動も列強に追随するもので、中国およびアジア各民族の失望を招くことになったのは、はなはだ失策でありました。(中略)アジアでは、インドと支那が抑圧されたものの中核です。横暴なものの主力はイギリスとフランスです。日本は抑圧されたものの友となるのでしょうか、それとも抑圧されたものの敵となるのでしょうか」。最後に日本が抑圧された国々の解放者として振る舞うように要請している。
孫文にとって、中国革命は中国だけの問題だけでなく、アジア史、世界史の中で捉えているのがわかる。大アジア主義者であった。
そして日本に絶望した彼は、革命が起きたばかりのソ連に接近して中国共産党との国共合作に動く。
1925年3月12日、がんにおかされていた孫文は、療養先の北京で客死する。遺書にはこう書いた。
「革命は未だならず。なお一層努力すべし」
その死後、結果的には革命の果実を毛沢東共産党に奪われてしまう。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『孫文革命文集』深町英夫編訳 岩波文庫
『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国』菊池秀明著 講談社学術文庫