前回、こちらを気持ちよくさせる言動で近づいてくる者は危険であると述べました。
考えてみれば、世の中というのはそのような巧言令色(口先だけでうまいことを言ったり、うわべだけ愛想よくとりつくろったりすること)に満ちています。危険がいっぱいなのです。
おそらく、唐の玄宗(げんそう)も甘い言葉には注意しよう、というくらいの気持ちは持っていたに違いありません。
しかし、なぜ楊貴妃(ようきひ)に夢中になり、安禄山(あんろくざん)にまんまと一杯食わされることになったのか。
皮肉にも、即位した後しばらく行なっていた優れた政治=あまりに禁欲的な政治が伏線となったのではないかと思われるのです。
玄宗皇帝の在位期間は44年間と、唐王朝の歴代皇帝のなかでもっとも長く、その前半は「開元(かいげん)の治」と呼ばれて、太宗の「貞観(じょうがん)の治」と並び称せられるほどのすばらしい政治でした。
開元3年(西暦715年)、盧懐慎(ろかいしん)という人物が宰相となりますが、この男は人柄が慎み深く清らかで、万事につけて質素でした。
官から賜ったものもすぐに親戚や知人にばらまいてしまい、いつも妻子は飢えと寒さにさらされ、その住居は風雨を防ぐにも不十分だったといいます。
このような人物が宰相の地位にあったうえに、玄宗自身の暮らしも質素でした。
開元21年(西暦733年)、韓休(かんきゅう)という人物が宰相となります。
韓休は性質が厳格で真っ直ぐな人物でしたので、玄宗は、時に酒宴などでいささか度を過ごして遊び楽しむことがあると、その都度、お側の者に、
「韓休に知られてはいまいか」
と心配してささやきました。そして、その言葉を言い終わるや否や、韓休からの諫めの書状が届くという有様でした。お側の者が、
「韓休が宰相となってから、陛下はことのほか、お痩(や)せになりました」
と、暗に韓休の罷免をほのめかしたところ、玄宗は嘆息して言いました。
「私は痩せたけれども、韓休のおかげで天下は肥えた」
このような玄宗の言葉から、玄宗の暮らしぶりが浮かんできます。
豪奢とはかけ離れた質素なものだったに違いありません。玄宗がいつまでも盧懐慎や韓休などの人物に囲まれていたら、後の転落は無かったのではないでしょうか。
韓休が職を辞すると、開元22年、張九齢(ちょうきゅうれい)が後を継いで宰相になります。
この張九齢も名宰相のひとりです。しかし、このとき、李林甫(りりんぽ)という人物も役職を得て朝政に参与するようになりました。
この男は、見かけは柔和で人あたりがよいけれども、口先がうまく狡猾な男だったのです。宦官(かんがん、去勢された男子)や女官などと手を結び、玄宗の動静を探って知らないことはないほどでした。
このため、李林甫が玄宗に奏上するとき、あるいは下問に答えるときは、いつも玄宗の思し召しにかなっていました。
開元24年、玄宗の誕生日のお祝いに、群臣は皆、それぞれ宝としている鏡を献上しましたが、張九齢だけは、前代の盛衰興亡について研究した「千秋金鑑録(せんしゅうきんかんろく)」五巻を鏡の代わりに献上しました。
玄宗にとって張九齢は、ただわずらわしいだけの存在となっていきました。
李林甫が張九齢を中傷したことで張九齢は職を解かれ、ついに李林甫が宰相となります。玄宗は帝位にあることが長く、次第に奢りの心が増長してきていました。そこにつけこんで李林甫が政権を独占するようになったのです。
これに輪をかけて、前回述べた楊貴妃(ようきひ)や安禄山(あんろくざん)が玄宗を堕落させました。
一身に寵愛を受けた楊貴妃のおかげで、楊氏一族は次々に出世して権勢をふるいましたし、楊氏と義兄弟となった安禄山は出世した後、手にした大軍を率いて謀反を起こしたのです。
これより前ですが、国家の会計係から、国家の金銀、錦帛(きんぱく)などをおさめる蔵がいっぱいになったという奏上がたびたびあり、玄宗は群臣を率いて見物に出かけました。
このときから玄宗は、金銀、錦帛をまるで糞土(ふんど)のようにみなして、臣下に与えるすることが無制限になったといいます。
開元の治を行っていた頃とはまるで別人になってしまった玄宗。こうなってしまったのは、在位期間が長くて奢りの心が増長したというだけではないでしょう。
若い頃、厳格な宰相のもとであまりに禁欲的な生活を続けたので、ゆるみ始めたら一気にゆるんでしまったのではないかと思うのです。
私欲は悪の種ではあるけれども、あまりに閉じ込め過ぎると暴発する危険性もある
と感じます。
「論語」に「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とありますが、自分自身にも他人に対しても中庸(ちゅうよう、過不足がなく調和がとれていること)を心がけた方がよさそうです。
目付け役にもなるべく硬軟のバランスのとれた人材を置きましょう。