日米繊維交渉の妥結結着という重荷を背負って通産省に乗り込んだ田中角栄は、逃げ腰の官僚たちを思い通りに動かすことにかけた。
登庁初日、官僚たちを前にした挨拶で田中はこう切り出す。
「予は三代将軍家光のごとき気持ちである」
何を言い出すんだ、と呆気にとられる職員たちに向けて話を続けた。
「よく知られているように、家康は加藤清正、福島正則など(の有力武将が)まだいたから、“予は将軍なり”と大きなことをいえば、いつ足を引っ張られるか、わからなかった。
二代将軍の秀忠は虚弱にして、そんなことをいう元気もなかった。ところが、家光は“生まれながらにして将軍である”といった。私は通産大臣となってここへきて、初めて国務大臣になった気がする」
なぞかけのような挨拶に二つの意味があった。
まずは家康、秀忠に先人大臣の大平正芳、宮沢喜一を暗にたとえて、自分は彼らと違い、家光として思う存分仕事のナタを振るうという意思表明である。
いま一つの意味するところは、入庁年次が支配する官僚機構への挑戦である。田中自身、三十代で郵政大臣、その後に大蔵大臣を務めたが、いずれの時も事務次官は田中よりずっと年上で、若造扱いされて苦労した。
挨拶はさらにこう続く。
「今回、事務次官の両角良彦君は昭和16年後期の卒業である。田中角栄が東大を出ていれば昭和16年前期である」
小学校しか出ていなくても、おれの方が年上だ、おれを向いて仕事しろと暗示したのだ。
役所という組織は、事務方のトップである事務次官がすべてを動かす。1年、長くても2年もすれば首のすげ変わる大臣に忠誠を尽くしても何の益もないと官僚たちは考える。
並みの大臣であれば、無駄な抵抗を避けて、事務次官の決定と報告にハンコをつくだけで良しとする。ものごとは前例主義の枠から抜け出すことはない。田中はそこに挑戦状を突きつけたのだ。
精力的に仕事を始めた田中は、日米繊維交渉について経緯を担当官僚から説明を受けた。
「米側は、日本の繊維製品のために国内の繊維産業が大きな打撃を受けているといいますが、実態がない。譲るわけにはいかないのです」
問題は、そこにはない。これは政治、国際政治の問題なんだと田中は見抜いていた。 (この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※ 参考文献
『早坂茂三の「田中角栄」回想録』早坂茂三著 小学館
『田中角栄 頂点をきわめた男の物語―オヤジとわたし』早坂茂三著 PHP文庫
『田中角栄の資源戦争』山岡淳一郎著 草思社文庫
『日米貿易摩擦―対立と協調の構図』金川徹著 啓文社