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人間学・古典

第11人目 「ネルソン」

渡部昇一の「日本の指導者たち」

 まだ若い頃に、真珠湾攻撃の機動部隊の航空参謀であった源田 実氏(当時参議院議員)の御自宅をお訪ねして、アメリカとの戦争について、いろいろ質問させてもらったことがあった。
 当方の幼稚な質問や愚問にもちゃんと答えてくださったのであるが、そうした問答の中で特に鮮明な記憶として残っているのは次の言葉であった。
 「日本がアメリカに敗れた理由は、日本海軍がネルソン精神を忘れたことにある。」しからばネルソン精神とは何ぞや。「索敵必撃」あるいは「見敵必殺」である。日本はこの言葉を拡大して「策敵必殺」などと言ったが、こんな言葉遊びをしたのはよくない。「敵を見たら、自分の損害とか、その場合の攻撃の適不適を考えずに、とにかく徹底的に攻撃し続ける」というのが「見敵必殺」であり、それで十分だったのだ――と源田さんは強調されたのである。
 ネルソンの時代は砲煙が濃く、撃ち合っているうちに、賢明な戦闘をしているのかどうか艦長にもわからなくなることがあったそうだ。ネルソンは各艦長に言い渡した。「とにかく敵を見たら攻撃し続けろ。そのほかのことは考えるな。敵に砲撃し続けている限り、その判断は一番正しいのだと私は評価する」と。
 それで各艦長は、一切の迷いなく、ただただ敵めがけて攻撃することを考えたという。それによって地中海のフランス艦隊をエジプトのアブキール湾に全滅させ、更にトラファルガーにおいてフランス全艦隊を撃滅した。
 源田さんはこんな話もして下さった。ネルソンの艦隊がコペンハーゲンを砲撃したときのことである。敵は陸の砲台であり、味方は軍艦(当時はまだ帆船だ)である。撃ち合っていると、敵は沈まないが味方は沈むおそれがある。そこでネルソンは各艦に錨を下させ動けないようにしてから砲撃させた。
 敵の砲台が沈黙するまで打ち続けるか、自分が沈められるかどっちかである。イギリス海軍は必死になって撃ちまくり、敵の砲台を沈黙せしめた。これがネルソン精神である、というのだった。
 ネルソンの伝記として有名なのは桂冠詩人であったロバート・サジイのもので、これは戦前の日本では海軍兵学校の教科書として使われていたと聞いたことがある。
 誰よりもネルソン精神を体現したのは日本の東郷平八郎であった。彼は日露戦争では常に見敵必殺でロシアの旅順艦隊やバルチック艦隊を全滅させた。特にバルチック艦隊との決戦の時は、自分の艦隊は全滅してもよいから、敵を全滅するという断固たる方針の下で、極めて危険だが効果のあるT字戦法を採用し、戦艦八隻を含むロシアの大艦隊を文字通り撃滅したのである。
 しかも日本の軍艦は一隻も沈まず(水雷艇のみ三隻沈没)世界海戦史上に例のないパーフェクト・ゲームをやった。しかしその後日本海軍はこの伝統を忘れたので敗けたのだと源田 実氏は言うのである。たしかに太平洋の戦いで、日本海軍はいつも腰がひけていた感じがする。ネルソン精神を引き継いだのはイギリス海軍であり、アメリカ海軍であった。
 今年の七月に私は会議のため、ロンドンとケンブリッジに行った。主催者側が接待の一つとして、テムズ川の舟遊びを計画してくれた。船の上で昼食を摂りながらグリニッジに行くというのである。テムズ川下流の両岸の住宅開発のすばらしさに驚いたが、もっと驚いたのは川の真中に古い駆逐艦ベルファストが繋留されていることだった。
 一緒にいたイギリス側の人たちは軍人ではなかったが、この小さな軍艦のことをよく知っていて説明してくれた。それは昭和十八年(1943年)の冬、スカンジナビア半島の北、北極海に連らなるバレンツ海での海戦のことである。ドイツと死闘を繰返している。
 ソ連を助ける軍用物資を送るため、イギリスとアメリカは護送大船団(コンボイ)を組んで、北大西洋からノルウェイを北廻りしてバレンツ海を渡っていたのである。
 ドイツはこれを阻止するため巡洋戦艦シャルンホルストのひきいる五隻の駆逐艦を出す。冬の北極に近い海は荒れ狂っている。ドイツの駆逐艦は荒天を恐れてか、敵を見ないうちに港に帰ってしまう。しかしイギリスの駆逐艦は自分が大波でひっくり返りそうになりながらも魚雷攻撃を行って、ドイツの有名な巡洋戦艦を沈めてしまったのだ。
 巡洋戦艦と駆逐戦艦が戦うことは、相撲で言えば三役と十両か幕下の対戦になる。しかしイギリス海軍にはネルソン精神が生きていた。それは今回でもなお、テムズ川の真中で記念されている。
 第二次大戦のイギリスとドイツの海戦をみると、常にイギリスがネルソン精神でとことん攻撃しているのに、ドイツ海軍は常に不徹底であった。勝っている時でも不徹底であったから、結局イギリス海軍に圧倒されてしまっている。
 ナポレオンからイギリスを救ったネルソンは、その精神を二十世紀の半ばまでちゃんと伝えてイギリスを護ったのである。それに反して日本の東郷元帥の精神は昭和の日本海軍のリーダーたちには受け継がれなかったのである。 

渡部昇一

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〈第11 人目 「ネルソン 」参考図書〉
「完全勝利の鉄則―東郷平八郎とネルソン提督 」
生出 寿著
徳間文庫刊
本体552円

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