古代の終焉
平清盛(たいらのきよもり)と聞くと、絶大な権力を手に入れながら政権を維持できなかった、贅沢三昧の貴族武士のイメージがつきまとう。『平家物語』の有名なフレーズ「驕れる平家は久しからず」に引きずられるからである。しかしこれは勝者としての源氏政権が書いた歴史による印象操作だ。実際の清盛は、古代末期の歴史的転換点にあって、制度疲労を起こしたこの国の体制を組み替えて武家が仕切る世に向け果敢に革新しようと試みた改革者の側面を見逃してはならない。
7世紀後半の天武朝が切り開いた律令制による統一国家建設の理想は、12世紀ともなると綻びが隠せなくなっていた。根本的な原因は経済の問題にある。〈公地公民〉つまり農耕地は国家が所有し国民がそれを耕すという国家の理想の崩壊だ。次第に天皇家、貴族、寺社が所有する荘園が拡大し、それぞれの利権が複雑に入り組むようになった。農業技術の革新で増大する農業収益は、国家の財政に反映されず、農民層も荘園所有者たちから恣意的に課される税(年貢)の負担に耐えきれなくなってきた。
もう一つの綻びは、政治面で進行する。摂政・関白という天皇補佐役の権限を世襲し続ける藤原一族の権限拡大で、行政も硬直化してゆく。危機感を持つ朝廷は、外戚として幼帝を通じて影響力を行使する摂関家に対抗するために、早々と退位した天皇が上皇(法皇)として政治を左右するようになり、荘園を整理し、朝廷の荘園比率を高め権力を取り戻そうとする。
そうした1118年(永久6年)、時代の転換点に清盛は軍事貴族の子として生まれ育った。京都で公家並みの教養と立居振る舞いを身につけた清盛は朝廷の信頼も厚く貴族としても順調に出世してゆく。
保元の乱
時代は武士の軍事力を求めていた。地方の領主層は土地の権利を守り、荘園主との関係を有利に進めるために武力を伴う武士化してゆく。荘園主である天皇家、貴族、寺社側でもこうした地方領主を抑えるために中央武力を渇望した。戦争のための武力というより、中央の権威を領主たちに見せつけるための武力だ。平氏も源氏も皇室の流れを汲む軍事貴族として朝廷、貴族に重宝された。その子飼いであるはずの平氏と源氏が京都で軍事力を誇示する機会が訪れた。
1159年(保元元年)7月に起きた保元(ほうげん)の乱だ。天皇家の代替わりによって、朝廷は崇徳(すとく)上皇と後白河天皇が対立し、摂関家の内紛も絡んで、双方が武家貴族を動員して睨み合った。この戦いで清盛は見事な政治的手腕を見せ、さらに朝廷に食い込む。その手腕とは。
源氏は、父為義(ためよし)と弟の為朝(ためとも)が上皇側、子の義朝(よしとも)が天皇側につき父子で別れたが、清盛は、双方に恩義ありとして、当初、態度を明らかにしなかった。同世代で出世争いにおいて遅れをとる義朝は手柄を立てるべく早速に天皇側につき、急いで敵陣を襲うことを具申する。戦功にはやる義朝は200騎を率いて、早朝に御所から最短路で鴨川を渡り白河北殿に籠る崇徳の陣を一気に襲う。焦るのである。清盛はどうしたか、、、
請われて前夜に後白河天皇の前に馳せ参じ、義朝と同時に300騎とともに御所を出たが、あえて南に迂回し、遅れて戦場に到着する。先陣争いでの無駄な被害を避けた。「所詮、朝廷内の争いごと。無益な争いは避けた方がいい」と考えたに違いない。
さらに、天皇、貴族たちの目の前での武力の行使は、彼らに武家に対する無用の警戒感を持たれてしまう。無骨な東国武士の中で育った義朝には、そうした朝廷周辺の心理は読めない。わずか100騎の敵を追い散らし、白川殿に火をかけた。あっという間に天皇側の勝利となった。
しかし、案の定、武家の戦闘力の恐ろしさを見た天皇、貴族たちは震え上がった。戦後の恩賞で、父まで討った義朝とその輩下にはこれという沙汰はなかった。これに対して、大した手柄もなかった清盛には、それまでの安芸守から地方官筆頭の播磨守に栄進させた上、輩下の武将たちにも天皇に近づく昇殿の権利を認めた。
〈野蛮な源氏と東国武士たちを牽制するには、我らを守る清盛の沈着さと武力が必要だ〉との思いを朝廷に再認識させた。清盛の読み通りだった。
旧体制との協調
武力誇示による出世をたのむ義朝の悲劇はこれに終わらなかった。5か月後の平治元年12月、清盛憎しに燃える義朝は、清盛が熊野詣でに出かけた留守に、後白河側近のクーデターに加担し、上皇となり院政を敷く後白河と二条天皇を軟禁し、急を聞いて戻ってきた清盛と対峙する(平治の乱)。このままでは、清盛が軍を動かせば、朝敵となってしまう。
清盛はここでも政治的作戦に出る。クーデター派の軍門に降ったふりをして油断させ、天皇を六波羅の自陣に密かに招き入れてクーデター派追討の宣旨(天皇命令)を出させる。これで清盛は官軍となる。義朝軍をおびき出して叩き潰すことに成功した。義朝は落ちのびる途中、美濃で首を切られて果てた。
時代の転換点で荘園問題も含めて有効な手を打てない摂関家に代わって、武家が土地問題を取り仕切る必要があると考えたまでは、清盛も義朝も一致していた。しかし、武力だけでそれを成し遂げられるとは清盛は考えていなかった。
朝廷に接近し、事実上の権力(行政力)を把握する。そのためには旧体制とも協調する政治力が何より必要だと、清盛は考えていた。
ライバルを追い落として後白河に食い込んだ清盛の改革がいよいよ始まる。(この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『平清盛 天皇に翻弄された平氏一族』武光誠著 平凡社新書
『平清盛 「武家の世」を切り開いた政治家』上杉和彦著 山川出版社
『日本の歴史6 武士の登場』竹内理三著 中公文庫