こんなことがあった。
ある日彼は、ニューヨークの出版業者JWグリーンバーグ主催の晩餐会の席上で、
ある有名な植物学者に遭った。
それまで植物学者とは一度も話したことがなかった彼だったが、植物学者の話が素晴らしくて
魅せられてしまった。回教徒が麻酔に用いるインドの大麻の話、植物の新種をおびただしく作り出した
ルーサー・バーバンクの話、その他、屋内庭園やジャガイモの話など、聞いているうちに彼は、
文字通りヒザを乗り出していた。
その晩餐会には、客は他にも12~3人あった。だが彼は、非礼をも顧みず、
他の客を無視して何時間もその植物学者と話したのである。
夜も更けてきたので、彼は皆に別れを告げた。
その時、植物学者はその家の主人に向かって、彼のことをさんざん誉めあげた。
しまいには、彼は、“夜にも珍しい話し上手”だということになってしまった。
(D・カーネギー『人を動かす』創元社より)
彼とは誰であろう、名にし負うD・カーネギーである。彼は述べている。
「話し上手とは恐れ入った。あの時、私はほとんど何も喋らなかったのである。
喋ろうにも植物に関しては全くの無知で、話題を変えでもしない限り、
私には話す材料がなかったのだ。
もっとも、喋る代わりに聞くことだけは、確かに一心になって聞いてた。
心から面白いと思って聞いていた。それが相手にわかったのだ。
したがって、相手は嬉しくなったのである。こういう聞き方は、
わたしたちが誰でもできる最高の賛辞なのである。
・・・だから実際は、私は単によき聞き手として、彼に話す張り合いを
感じさせたにすぎなかったのだが、
彼には、私が話し上手と思われたのである」
このエピソードを待つまでもなく、世の中には話し上手は多いが、「聞き上手」は少ない。
もっと言い切ってしまえば、圧倒的大多数の人間は精神的・心理的難聴者である。だが、
人に感謝され好感を持たれ、しかも己の肥やしとなるのは、話し上手ではなくて「聴き上手」である。
そしてまた、「聴く」ことの方が、神様の決めた自然の摂理に適っているのではないか?
口はひとつしかないが、耳はふたつあり、しかも口より上についているのである。
つまり、話すことよりは聴くことの方が上位にあり、少なくとも二倍は大切ですよ、
と、神様が決めているのである。
積極的に聴くことを心がけたいものだ。
また、「聴くこと」に慣れていない人は、テクニックとして、次の3つをお試しあれ。
だんだん「聴き上手」になること請け合いだ。
(1)メモをとる……こうすると、自分の記憶の誤りを避けることができるのと同時に、
相手にこちらの誠実さが伝わる
(2)話の途中で、相手の話を遮らない
(3)「ええ」「なるほど」など、しかるべき合いづちを入れながら聴く。
時には軽い驚きや賛嘆の間投詞をまじえながら。