【歴史を学ぶ意義】
2人の先人の言葉が的を射ています。
「過去をより遠くまで振りかえるならば、
未来をより遠くまで見通すことができる」
ウィンストン・チャーチル(イギリス元首相)
「過去を知らずして、
未来を先取りすることはできない」
フランスのエリート要請機関の頂点に立つ
ENA(国立行政学院)の校長
今回のテーマは
耳が痛いです。
でも、経営とは、できるできないではなく
理想を追い求めるものでありたい!
そこから、今を生きる我々に元気とヒントをもらえるはずです。
(1) 日本の経営 人の経営はどうして出来たのか?
1) 日本経営のスタート
元禄期(1688年から1704年まで、江戸中期)
もっとも江戸時代で栄えた時代と言われる元禄時代。
その時に
拝金主義がはびこり、モラルが低下し
そのために、栄えた企業も1代限りでしかなかったようです。
一代だけだった企業の代表例が
紀伊國屋 文左衛門
(紀州みかんや塩鮭で、財を成した)
奈良屋茂左衛門(材木商、定期的に大火になる江戸で材木によって財を成す)
その結果
徳川綱吉に信任を得ていた儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)は、
「利は社会に無用」と、モラルの低い商売人を社会に不要と言った。
現代の経営者にも愛読者がいる、倫理学者で、
当時の経営書「都鄙問答(とひもんどう)」著者
石田梅岩は、「利は必要なもの」として、
モラルがない経営者だけを見て、商売は不要なものという
荻生徂徠の考えに反論した。
モラル低下、拝金主義をたしなめるように
石田梅岩の「都鄙問答(とひもんどう)」ができ
良い経営道が確立していったのです。
1710年以降(徳川吉宗以降、デフレ時期)
日本経済の停滞期になると
三井高利 1673年に後の三井財閥になる
越後谷が江戸に開業。
そのあとに、石田梅岩が、1739年「都鄙問答(とひもんどう)」を執筆。
石田梅岩の教え「石門心学」は、
19世紀には、全国40カ国、81箇所の「講舎」設立
・自由な競争の元、天命によって価格決定されるアダムスミスの見えざる手の前に同じことを言っていた
・商人の貪欲な営利心(不正の元)は家業を滅ぼすものとして否定され、常に「廉直」「正路」(正直)なビジネスが基本的モラルとして唱道されたのである。梅岩による商人道の徳は、社会一般や武士となんら異なるところがなく、五常五倫(主従、親子、夫婦、兄弟、朋友)の途(みち)たるものであった。奉公人(使用人) は他人ではなく、一家の従業員であって、主人の側の「仁愛」と奉公人の側の「誠実•忠義」とが基本とされた。
こうした人間関係が商家経営に機能するためには、主人が身勝手やおごることなく、全員の「心が離れないように」納得と協力とが強調された。したがって、重要な意思決定については古参ないし上級の従業員の意見を求め、経営の側の独断を排するため「寄合」(会議)が必要とされている。
従業員が面と向かって言えない事柄については「入札」(投票)制まで奨められている。
イギリスやフランスの18世紀はブルジョア商人の時代であるが、かつての貴族社会と同様に使用人は「召使」であって、車夫•馬丁と異なるところがなかった。
家業(企業)の維持•存続の理念は、こうして「和」と「協力」の理念と結びついて成長することとなる。
これが、日本経営のスタートと言われているのです。
2) 「人の経営」とは
「人の経営」とは、経営の側からみて、
1 他人を信用し、雇用ないし従業員を重視する。
2 能力・意欲とその教育を重視し、経営者への途をひらく。
3 経営の組織的能力の向上に努める。
4 取引先はじめ関係者に配慮する。
5 人間の関係を尊重することから、存続が意義を持ち、倫理やモラルが不可欠となる。
存続のための経営その1 ゴーイング・コンサーン
存続のための経営その2 従業員の重視と「奉公」
存続のための経営その3 「和」とコミュニケーション
存続のための経営その4 得意先主義
3) 日本の保守的
江戸後期保守化
幕藩体制のもとで、土地開発(新田開発)をはじめ農業生産力の向上が頭打ちとなり、鎖国のもとで産業用の技術の向上も望めなくなった。
↓
結果、保守化したのです。
しかし、
保守化したが、変化をしてきたのです。
・老舗としての信用を重んずる商家は存続(サスティナビリティ)の理念のもとで、それなりに経営を深化(深堀化)させた。
・始末、算用、才覚の商人の三宝
始末は収支の確保、算用は算盤による計算能力で、ともに堅実経営の要諦といってよい。近江出身の有力な商家では帳簿が発達し、損益勘定と資産勘定の二重記帳が行う行われたことは、注目に値する。
才覚については、目覚ましい革新こそみられなかったとはいえ、気が利く能力が評価されて「奉仕」の理念のもとに、顧客先の多様なニーズに応ずるきめ細かな経営がものをいうようになった。越後屋、白木屋、高島屋などでは、季節、階層、流行を取り入れた品揃えが重視され、さまざまな特売が行われた。いわば、商品の質と奉仕(サービス)が経営の存続に重要となったのであり、現在まで続く日本の流通、販売の特質の伝統となっていくのである。
4) 江戸時代の「経営」が今日に通じている
「企業は人なり」「経営は人なり」
米国人で経済史を専門とするR・ロック教授が来日した際、
とある百貨店で「感謝と奉仕」と書かれた看板を目にされて、
私に「誰が誰にいう言葉なのか」と質問しました。
ロック教授は、日本語はわかりません。
「gratitude and dedication」と直訳し、取引先やユーザーに対して、
また従業員に対しての言葉だと説明すると、
目を丸くして驚いていました。
逆に、米国では何をモットーにしているのかと質問すると、
「profit、money only」と答えられ、
今度は私が当惑した思い出があります。
ロック教授は、世界のどのビジネススクールにも「profit」以外の言葉はないとのことでした。
18世紀半ばに英国も日本も市場経済の時代に突入
英国は、
対外貿易が盛ん
「輸出」が中心、
消費者は目に見えないし、
「人」はあまり重視されません。
自由主義経済が進んで失業者が町にあふれても、
それはinvisible handの働き、
つまり神のおぼしめしとされました。
機械化が進むと同時に、
enclosure movement(土地の囲い込み運動)により、
絶えることなく農村の人々が都市に流出してきたわけです。
同じ時期の
日本は、
完全に国内市場と自給自足の経済
参勤交代が制度化されて江戸の街が大きく発展するとともに、
17世紀半ばから鎖国が本格化しました。
資源のない日本は、
この鎖国体制の中で自給自足経済が形成されていきます。
当時は埋め立て技術もないため国土を広げることもできません。
18世紀になると約2,500万もの人々が資源もなく、
完全な自給自足で生活しなければならないため、
効果的に「人」を使わねばなりません。
昔から人々の教育も重視されていました。
「企業は人なり」「経営は人なり」といわれてきたように、
江戸時代から日本的経営の本質的な特徴は「人」にあります。
これは中国人も韓国人も理解できるので、東洋的な概念かもしれません。
(2) 日本の経営者
1) 伊庭貞剛
「別子銅山中興の祖」と言われ、「東の足尾、西の別子」と言われた、住友新居浜精錬所の煙害問題の解決にあたった。植林など環境復元にも心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者とも言われている。
第二代総理事として活躍した伊庭貞剛は、事業と組織の近代化に注力し、住友グループ発展の基盤を築いた人物である。
別子銅山では、銅の精錬工程から生じる亜硫酸ガスによって、深刻な煙害が生じ、地域の自然環境と農業に多大な被害をもたらした。
貞剛は自ら本店支配人を辞し、別子銅山支配人として現地に赴き、煙害の完全なる解決を目指した取り組みを実践した。銅の製錬所を新居浜沖の無人島(四阪島)へ移転して、煙害の解決を図るとともに、別子銅山では大規模な植林事業を主導し、自然環境の復元に取り組んだ。
自社の利益と社会の利益は一体であるという事業精神(自利利他公私一如)を掲げ、次世代への責任を果たすことを起業家の使命とした。
日本版CSRの先駆者と称されている。
住友グループは
住友では商家・住友家を興した住友政友を家祖、
南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発した政友の義兄蘇我理右衛門を業祖
というように二人が創業者と言われる。
伊庭貞剛の言葉
「自利利他公私一如」
「君子財を愛す、これをとるに道あり」
「人の仕事のうちで一番大切なことは、後継者を得ることと、 仕事を引き継ぐ時期を選ぶこと」
「経験に重きをおきすぎないこと」
「少壮者に必要なものは敢為の気力」
敢為:物事を困難に屈しないでやり通すこと。
少壮者:若者
「少壮者の過失はなるべく寛大に」
「老人は少壮者の邪魔」
「青年への忠告」成功を急いではならぬ
幼少期のエピソード
道場の行き帰りのあぜ道で
行商の老婆に会い
帯刀した青年と、重い荷を背負った老婆がすれ違えない。
あぜ道を降りて、譲った。
伊庭貞剛の経営観
環境(植林による環境保全)
企業統治(理念経営の継承)
社会(煙害の根本解決)
これらを重ね合わせ、
中心に
「自利利他公私一如」
を、置いた。
「富の追求」と「社会への貢献」のどちらか一方を選ぶのではなく。両者を実現する方法を見出そうとした。
近代住友の礎を作った、伊庭貞剛。
当時は、世界的に経済活動するなら
公害などはやむを得ないという状況の中
東では足尾銅山の公害で問題になっていたころ
西の別子銅山の公害を解決しようと
努力をした人です。
残した言葉は、今の経営者にも
意識したい言葉ばかりなのです。
伊庭貞剛が意識した
「経験に重きをおきすぎないこと」
経験に重きを置きすぎて、没落した事例もあります。
経験主義では没落する!
悪い事例が、世界最初の自動車王国を作った
ヘンリーフォード1世です。
経験主義に偏りすぎるとよくないのは
人間の性格上
過去に引きずられやすい。
成功体験に引きずられる。
経験以外受け入れがたくなる。
からなのです。
その結果、時代の変化についていけず
過去に固執し、時代から取り残されて没落していくのです。
例)
ヘンリー・フォード
フォードはモデルTに固執し、没落を招きました。
成功体験に縛られて、時代が、経営環境が、市場のニーズが変化していることに気づかなかったのです。歴史は特に嫌いだったそうです。
“History is bunk.”(歴史は、ごまかしで無意味だ)
1908年10月 T型フォード発売
よいものを安く消費者に提供すること、
これがヘンリー・フォードも信じるところであり、
強い成功体験なのです。
販売台数が低迷しだした時に、
時代は変わってきていたのに
過去の成功体験をさらに突き進もうとし
モデルチェンジをせず
さらに価格を下げ、シェアを支えようとしました。
しかし、時代は、安いものよりも
新しいデザインなどを望んでいたのです。
その結果、モデルTに飽きていた消費者は値段を下げても買わなかったのです。
その後、
フォードもついに1927年にはしぶしぶモデルチェンジし
ライバルGM(ゼネラルモータース)を見習い毎年モデルチェンジするようになりましたが、世界最初の量産自動車メーカーで大企業になったフォードはモデルチェンジの遅れから1位をGMに明け渡し、それ以後1位に返り咲くことはなかったのです。
2) 三井高利
日本だけではなく当時、世界最大の小売店を創ったのが
三井高利です。
そして、三井高利は
物販店として世界初のことをいろいろし
さらに、1代だけではなく、継続するための経営者としての
考えを確立した人でもあります。
1673年 創業の三井高利
1730年 年間売上20万両(米価換算 1両6万円 120億円)
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/answer.html#a05
18世紀前半において、越後屋が、世界最大の小売店
1722年 家憲「宋竺遺書」2代目が三井高利の考えをまとめて制定
主なもの
・創業の祖の遺書による誓約で子孫まで遵守すべきこと。
・幕府の法令は店員ともに守るべきこと。
・分族全員が相戒め、和をもって尊しとすること。
・終生勤労をすべきこと。
・本店は各支店の会計報告を徴し、監査すること。
・定員の能力を見極め、有意の人材を訓練・登用すべきこと。
・家業に専念し、地味に儲けることに努め、相場や他の事業に手を出さぬこと。
・大名貸しを禁止すること。
三井高利の革新的商法
・1673(延宝元)年 江戸に越後屋の暖簾「現銀安売り掛値なし」
・傘を貸した
・店頭販売
・現金正価販売
・切り売り
・即座仕立て
・ロゴの作成
今では当たり前になっていることを
世界で初めて実施した。
高利の死後
三井家一族を9家に限り(のち11家となる)、
財産を分割せずに共有することとし、
統轄組織の大元方を設置し、
家訓として宗竺遺書を制定して、組織体制を固めていった。
3) 鈴木 馬左也
伊庭貞剛の後、第三代住友総理事になった。
伊庭貞剛の誘いに
「以徳招利(徳を以て利を得る)」の精神を堅持してよいなら入社すると伝えた。
「住友の事業に従事するものは、条理を正し、徳義を重んじ、世の人の信頼を受くるにあり。営利の授業といえども、必ず条理と徳義の経緯においてすべきなり。住友の事業において、いやしくもこの徳義の範囲において経営不可能なりとするものあらば、この事業は廃止することもやぶさかではない。」
文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)住友家初代・住友政友が晩年に家人の勘十郎に宛てた書状
住友の事業精神は、商売とは金儲けのみが目的ではなく、事業に携わる人の人格を磨き、道義心に基づく商売を実践すると言うものであった。
これを、鈴木風にアレンジをし、
わかりやすく変えて伝えた。
■鈴木 馬左也の経営観
【多角経営】
亜硫酸ガスから肥料を生産する技術革新に成功した。
完成した肥料を農家に無償で提供している。
住友肥料製造所(住友化学の前身)が設立され、化学工業への進出を果たした。
大阪湾の築港事業拡大と臨海工業地帯の開発を目的とする大阪北港株式会社(住友商事の前身)も設立されている。
【理念の改定】
いかに高まい(こうまい)な精神がこめられた家法を制定しても、
それを理解し、実践するのは人間である。
【経営理念】
求めた人物像:正直・勤勉・学芸・健康
面接に3時間かけることもあった。
自分は正義公道を踏んで、皆と国家百年の仕事をなす考えである。
総てのこと、愛が基である。愛とは仏教の慈愛である。
住友諸事情の中には成績の思わしからぬものがあっても、
之を愛し慈しまねばならぬ。
人を用いるの要は、正直第一とし、二は勤勉、三は学芸、四は健康であって、いかに学芸優秀でも、身体強健でなければ負荷に耐えない、
およそこの4つが具備して、始めて用いるに足る。
このように
モラルを基本とし
人を重んじ、
関連多角化をして言った人物です。
4) 岡田 良一郎
報徳思想を生み出した二宮尊徳の弟子。
経済合理性の追求が社会的責任や企業理念の実践に通じるという財本徳末主義を提唱した。
企業家として、社会的使命を自覚し、人々の「幸せ」を量産する経営を実践した。
・遠江国報徳社(とおとうみのくにほうとくしゃ)設立
・遠州二俣紡績会社設立
・掛川信用金庫(現島田掛川信用金庫)設立
に関わる。
報徳思想 至誠・労働・分度・推譲 → 豊田佐吉、大原孫三郎、波田野鶴吉も影響受けた。
報徳思想は、下記4つ。
・至誠 真心を持って事にあたり、私欲を抑制し天の利に沿って生きること。
・勤労 労働を通じて、自分の徳を最大限に発揮して人や社会に役立てること。
・分度 収入に応じた一定の基準(分度)を定めて、その範囲内で生活すること。
・推譲 将来や子孫のために蓄えること、人や社会に貢献すること。
よく使っていた言葉。
道徳を根とし、仁義を幹とし、公利を花とし、私利を実とす。
積小為大
経済無き道徳は寝言、道徳なき経済は罪
今でも報徳社は、続いている。
戦後の歴代社長も名の通った人が歴任している
河井彌八 参議院議長
戸塚九一郎 労働大臣
神谷慶治 東京大学農学部学部長
榛村純一 掛川市市長
鷲山恭彦 東京学芸大学学長
思想を持ち、信念を持つことが
日本の経営者の素晴らしいところだと思う。
5) 金原明善
明治時代に活躍した社会企業家である。
運輸業、製材業、銀行業、営利事業で成功を収め
社会企業家として、治水事業、植林事業、更生保護事業、
天竜川の水害から地域社会を守るため、私財を投じて大規模な治水事業を行った。
生活信条
①実を先にして名を後にす、
②行いを先にして言を後にす、
③事業を重んじて身を軽んず
理念
社会を利する
何事も一人ではできぬ。だが、まず一人が始めなければならぬ。
信念
金は生き物である。生きているものは時と場所でその値打ちを異にする。
人は何事を為すにも正直を旨とせねばならぬ。如何に知識や技術が優れていても、その為す事が邪であり、曲であったならば、それが世道人心に害毒を及ぼすことは言うまでもない。
誰もが一度は聞いたことがあるのは
日本ではあちらこちらに
私財を投げ打って、○○をした。という人が
必ず居る。
金原明善氏もその一人だが
日本には古くから、
自分が自分がということより
よろしくおねがいしますのため、人のためを考えていた
経営者がいっぱいいる。
6) 豊田佐吉
佐吉と息子喜一郎が開発したG型自動織機の生産効率は、
従来の織機に比べて20倍以上にアップした。
欧米の自動織機メーカーをまったく寄せ付けなかった。
報徳精神
18から20歳仲間と自主的勉強会をして、議論を交わしていた。
豊田佐吉の流れをくむ現社長の
豊田章男氏、2020年3月決算説明にて話した内容。
1.モビリティカンパニーへのフルモデルチェンジ
2.ナレッジを持つ人財を守り抜く
3.幸せを量産する「youの視点」を持つ人財を育てる。
自動化が進むほど人間の力が試される。機械に負けない技能やセンサーを超える感覚を持つ人を育てることが大切
「佐吉が発明した自動織機の最大の特徴は、糸が切れたら自動的に止まること。
このベースには不良品を出さない事はもちろん、人間を機械の番人にしないという考え方がある。
これをトヨタでは「ニンベンのついた自働化」と呼んでいる。
「ニンベンのついた自働化」は「人」を中心に置くと言う考え方であり、
お客様の期待を少しだけ先回りするという、製造業の究極のおもてなしだと」述べている。
トヨタは、トヨタ生産式と言われるように
工場での早く安く作るのに長けている。
しかし、
トヨタの生産ラインでもっともすごいのは
「早く造れ」という雰囲気だと
生産ラインを止めることはものすごく勇気がいることだが
それを止めることが
全体を考えたときに、もっとも良い方法だから
何かあればすぐ止めなさい
という雰囲気にできたことだ。
まーこれくらいはイイかとなったときに
後々不良品として回収するなら
膨大な時間がかかる
それよりも、すぐに止めて原因究明しようと
なっているのがすごい。
たぶん、豊田章男氏は
ひいおじいさんの豊田佐吉、おじいさんの豊田喜一郎も
我々が知っているよりも勉強をし
今に翻訳をして、経営の場で使っているのではないか?
経営者は、
大いなる翻訳家にならないといけない
消費者の翻訳家
先代の翻訳家
社員の翻訳家
通じるようにわかりやすく説明するのは
大切だと思う。
7) 大原孫三郎
倉敷紡績および倉敷毛織(現・クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)
を作り上げ
当時では珍しい労働環境の改善をとことんやった。
作った一つに
大原美術館がある。
所蔵には
エル・グレコの『受胎告知』
モネの『睡蓮』
ゴーギャンの『かぐわしき大地』
モディリアーニ『ジャンヌ・エビュテリヌの肖像』
わざわざパリまで行かなくとも
エルグレコも、モネの睡蓮も観れるのだ。
この美術館があったから
岡山の倉敷は第二次世界大戦の時に
爆撃から免れたとも言われている。
一度行って欲しい。
大原孫三郎の言葉
仕事は三割の賛同者があれば着手すべきだ。
五割も賛成者がいればもう手遅れだよ
「余は余の天職のための財産を与えられたのである。
神のために遣い尽くすか、或いは財産を利用すべきものである」
8) 波多野 鶴吉
郡是製絲(現:グンゼ)の創業者
在来産業である養蚕業を基盤にして、地域社会の経済的自立を目指した。
「地域のための企業」であることを示すために、
「郡是=郡(地域)の方針」という社名をつけた。
さらに、郡是製糸を支える養蚕農家を株主に加えることで、
企業と地域社会の一体感を高めた。
「品質の良し悪しは、作り手の人格による」と考えた鶴吉は、
企業内に学校を設立し、従業員の意欲やモラルを高める努力を続けた。
信念
会社の精神は愛である。
金よりも何よりも大切なのは人であります。
長く続く会社は
どうも、人から愛される。
消費者からも、従業員からも、そして地域の人からも。
そのためには
人を理解しないとできない。
それには、
従業員に学んでもらう。
そして、経営者自らも学ぶ。
学び、そして、学びの場を提供する。
これは、今でも重要なのかもしれない。
9) 矢野恒太
第一生命保険創業者。医師。日本アクチュアリー会初代代表。
「相互会社の産みの親」と呼ばれ、「蒼梧」と号した。
よく使った言葉
「最大たるより最良たれ」
「企業は誰のためにあるのか?」
「およそ事業に必要なのは、成し遂げる能力ではなくやりとげる決心である。人間の地位や名誉、財産ほどくだらないものはない。
わしは無一文で生まれてきたのだから、無一文で死ぬのが理想だ」
「信じたならばその信念を固く抱き、確信を持って一生を貫け」
10) 小林一三
価値の増大を目指した。
モットーは、「お客様のためには、最良のものを届けよ」
阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。
鉄道を中心とした都市開発(不動産事業)、流通事業(百貨店、スーパーなど)、観光事業などを一体的に進め相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げ、後に全国の大手私鉄や民営化したJRがこの小林一三モデルを採用し、日本の鉄道会社の経営手法に大きな影響を与えた。
11) 出光佐三
出光佐三の基本理念
1. 人間尊重
2. 大家族主義
3. 独立自治
4. 黄金の奴隷たるなかれ
(黄金を尊重せよ,しかしひざまづくな)
5. 生産者から消費者へ。
(利鞘を稼ぐだけの中間商人を排除して,専門的な知識を持って専門家と
して消費者と生産者とを直接結びつけていく,そのことによって,
生産者と消費者の両方の便宜を図っていくのが
自分たちの社会的使命なのだ。)
(3) 日本の経営は
江戸で、経営者教育
明治で、従業員教育
1) 企業の存続
会社存続説の変化
江戸時代から事業存続の理念は存在し、三井越後屋などは利益よりも家の存続が第一とされた。
↓
天保生まれで会社の勃興の時期に活躍した人物
(渋沢栄一、安田善次郎、岩崎弥太郎、大倉喜八郎など)
必ずしも「企業は永続するもの」とは考えていません。
明治初年には会社寿命は10年や20年説が唱えられ、
会社の定款にも存続は20年と書かれていた。
西洋と同じ資本主義的な考え方であり、ある段階までもうけ、
もうからなくなれば会社を解散させて終わり、
あるいはもうけたら早々に会社を畳み、残余財産を分配して株主に返還、
という考えもありました。
↓
日露戦争が終わったころからどの会社も定款に
存続年数を書かなくなりました。
「家」と同様にもうけとは関係なく、
会社は維持・継続していくべきものであり、
存続できるか否かは経営者の腕次第という認識が広まります。
大正時代、経済評論家・経済史研究者の高橋亀吉 著書
『株式会社亡国論』(1930年、万里閣)で
会社を売却する経営者を取り上げ、痛烈に批判しました。
世間の人々もそんな経営者に良いイメージは持ちませんし、
自分の会社だからと配当を優先したり、好きに売ってしまうのは、
「企業は人なり」という日本の優れたコーポレートガバナンスを
揺るがす行為の最たるものとしました。
↓
住友、三井などの財閥も大正、昭和に入ると大きな組織を維持するのが
難しくなりますが、世論や従業員など下からの力に支えられて
存続した面もあります。
財閥系企業は配当を抑制し、雇用を重視しました。
会社を存続させるというのは
実は、
大正に入ったくらいからで
それまでは、定款にも、永続でははなく
期限付で経営をしていたようです。
老舗の感覚は
企業の存続ではなく、
家の存続だったようです。
それが、大正期になり
経営は続けるものだと
なっていきました。
2) 明治初期の三大苦悩
大阪染色工場における寄宿舎管理人の三大苦悩として、
1番目が女工を工場に毎朝きちんと出勤させること、
2番目がまかないに対する不平であり、
3番目が彼女たちの品行を良くすることであった
当時の日本企業の現場の様子を示した『職工事情』と資料より
女工のおしゃべりや怠業が絶え間なかったために、
仕方なく長時間労働にせざるを得なかった事情が示されている
1日の労働時間は16〜7時間なりと聞けば、
その長きにわ亘り如何にも過酷なる如くみえるも機職工は
機械的に動作するものであらず、
その就業時間中全力をもってして労働に従事するが如きなく、
倦怠すれば自らの手を休め、あるいは雑談を試み、
あるいは管巻を取りに行くとか監督者の目を盗みて労働する。
(農商務省商工局工務課編「職工事情」1903年、236ページ、なお原文は旧漢字とカタカナで表記)
明治の急激な工業化は
「あー野麦峠」に代表されるように
女工の苦悩、労働環境の悪さを
我々は想像するが
そればかりでなく
上記に書かれているように、
今までやったことも無い時間管理のもと
工場作業を、休憩がてら、
家の仕事や農作業のように考えていた人がいてもおかしくない。
江戸時代から、明治時代になり
働く場所、働き方が大幅に変化をし
真面目に働くのがどういうものかが
明治時代に確立されたのだろう。
江戸時代の武士は
おおよそ、10時くらいまでに登城、
14時くらいに帰ると言うのが普通だったようなので
一日、8時間、10時間働くことじたいが
最近の習慣と言うことになるのでしょう。
3)明治初期の工場男女比
民間工場 7,550工場 44万人
うち繊維産業 26万人うち23万に約9割が女性
ちなみに1902年の日本人口 44,964,000人(https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index01.html)
現在 日本人口 約1億2500万人
工場数 181,877工場 7,717,646人
(2020年工業統計表 産業別統計表より
https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/kougyo/result-2/r02/gaiyo/index.html)
とにかく、女性の比率が高く、その女性に
それまでとは異なる働く習慣を植え付けるのに
時間と労力がかかったのでしょう。
(4)幸せとは限度がある?ない?
1) 「成長の限界」
1970年(昭和45年)に世界中の有識者が集まって設立されたローマクラブは、
1972年(昭和47年)に「成長の限界」と題した研究報告書を発表し、
人類の未来について、
「このまま人口増加や環境汚染などの傾向が続けば、
資源の枯渇や環境の悪化により、100年以内に地球上の成長が限界に達する。」と警告
ローマクラブのメンバーだったメドウズらは、
2005年(平成17年)に出版した著書の中で「成長の限界」を振り返り、
「豊かな土壌、淡水等の再生可能な資源を酷使しつつ、
化石燃料や鉱物等の再生不可能な資源が減少する中で、
地球が受容できる以上の排出を続ける限り、
現在の経済を維持するために必要なエネルギー等のコストが高くなって、
経済を拡大させることが困難になるだろう。」と再び警鐘を鳴らし、
社会の持続可能性を高めるよう提言しています。
環境省>環境白書・循環型社会白書・生物多様性白書>平成25年版 図で見る環境・循環型社会・生物多様性白書>状況>第1部>第2章>第2節 経済社会の変革への動きより
資本主義経済、民主化というのが
明治以降の近代日本が、信じて突き進んできたことだが
より豊かに、より予定通りにということが
実は、幸せになることだったのだろうかというのが
最近、問われることになって生きた。
西洋化、欧米化ではなく、
実は、日本人らしい生き方が
良いのかもしれない。
そうなるためには、
何を参考にすると良いのか?
2) 「経済成長と幸福」
経済成長と幸福。
この 2つの相関関係について 実証を試みた研究者たちが
おおむね同意している のは、
実質平均所得が1万米ドルを下回る場合だ。
こうした所得の低い国々では、
平均所得の増加が生活の満足度の増加につながるようだ。
ただ、
アダムスミスは
「所得が増大してもほとんど意味をなさなくなる閾値(いきち)がある」
※閾値(いきち):刺激を引き起こすのに必要な最小の刺激の強さを意味する
といっているように、経済でより豊かになり幸福感を得るというのは
最近では限度があると言われている。
ノーベル経済学賞を受賞したアメリカのプリンストン大学のダニエル・カーネマン名誉教授は「年収7万5000ドル(日本円にして約800万円)までは、 収入が増えれば増えるほど幸福度は比例して大きくなる」ことを科学的に明らかにしました。ところが、
「年収800万円付近を境に、それ以上収入が増えても幸福度はほぼ変わらない」
収入と、幸福度は人により数値は違うにしろ
限界はあるようだ。
では、何が良いのか?
J・S・ミルは「所得ではなく自由」が「最大の善」に至る最も確実な道
と、述べている。
労働時間はどんどんと延びていく。
例えばイングランドでは、1200年代に1620時間であった年間労働時間は、1600年代には1980時間、1840年に 3100~3600時間に増えている。
近代社会の到来とともに年間労働時間は長時間化し、
それがまた産出量を増やし、それによって人口の増加を可能にしたのである。
現代では「飢餓の恐怖から失業の恐怖へ」変化していった。
(5) 日本的経営とは?
1) 日本的経営とはなにか
企業とは利益を出すものだが
日本の経営の特徴は、それだけではない。
前述したように
江戸時代、当初は儲けだけを考えてきたが
それだけでは長続きしないので
変化してきた。
その結果として
「会社は誰のものか?」を考えるようになり
「所有者(株主)のものだ」「従業員のものだ」
いや、「お客様のものだ」
というなかで確実に変化をしていった。
日本的経営の「三種の神器」として、
終身雇用、年功制、企業別組合の3つの要素
と良く言われるが
日本的経営とは、
「協調的な労使関係を基盤にして、授業員利益の最大化を目指す経営」
である。
日本的経営は、長期雇用と年功制は並存した「旧型日本的経営」から、
長期雇用に重点をおき年功制には重きをおかない「新型日本的経営」へ、
変身しなければならないのです。
「株主のもの」であるアメリカの企業の多くでは、
専門経営者が、株価の上昇を至上命題とせざるを得なかったため、
短期的な利益の追求に目を奪われて、
長期的な視野に立つことができなかった。
また、配当重視の利益処分を余儀なくされて、
将来の投資のための内部留保を十分に行うこともできなかった。
一方、
「労働者のもの」である当時のソ連の企業では、
労働者が、一人当たりの取り分の減少を恐れて、
労働者数の増加に反対した。
また、企業間競争が存在しないため、
新技術の導入に抵抗する傾向も強かった。
これに対して、「従業員のものである」のタイプの
日本の企業(経営者企業である日本の大企業)は、
アメリカやソ連の企業で作用したこれらの企業成長を妨げる要因から、
自由であり得た。
労使の強い一体感に支えられながら、
従業員利益を最大化するような意思決定を繰り返す。
これが、高度経済成長期の終わりまでに日本の大企業に定着した、
特徴的な経営のあり方であった。
このような経営のあり方に対して、「日本的経営」という。
そして、野田が考えるもっとも日本経営なのは
世のため人のための経営であり
今だけ、自分(会社)だけ、お金だけの経営にならないようにしなければならない。
従業員、お客様、世間のために「継続する経営」が
これからの日本的経営、和的経営。
継続するには
・三方よし
・和・調和を重んじる
・ちゃんとしている「当たり前のことを極限レベルで」
・不易流行
を心掛けると良い。
(6) まとめ
経営で、これから意識しないといけないことは、
・時間(時間短縮)
・物的でない満足
・女性、外国人登用
・時間あたり賃金の上昇
・時間つぶし
そして変化の激しい今、
時代の流れ、変化をを読めないといけない。
そのために!
・勉強する
・視察に行く
・変わる(成功体験に縛られない)
・時間と意義がすごく大切になる
どうも、成長には限界があるようだ。
時代のしっぽと時代の頭との見方で
売上げ、利益、ブランド、個を中心とする考え方が
時代のしっぽになっている気がしてならない。
200年で時代が変わるならば
江戸後期の変化は、学べるものではないか?
拝金主義から、継続・公利に変化した江戸後期。
変化した考え方は
・人として見本になる(コミュニケーションの第一歩)
・人間学(見本になる)
・お役立ち料(お客様主義)
・和(わかりきったこともちゃんと言う)
日本人が日本人らしい組織を作ることが
これから世界に必要だと思う。
『日本の誇れる経営者の歴史』終了。
参考文献
日本の経営 由井 常彦 (著)
歴史が語る「日本の経営」 その進化と試練 由井 常彦 (著)
マテリアル日本経営史 江戸期から現在まで (編)宇田川勝、中村青志
400年前なのに最先端! 江戸式マーケ 川上 徹也 (著)
経営学入門シリーズ 経営史<第2版> (著)安部悦夫
エッセンシャル経営史生産システムの歴史的分析 (著)中瀬哲史
SDGsとパーパスで読み解く責任経営の 長谷川直哉 (著)
ゼロからわかる日本経営史 (著)橘川武郎
掃除と経営 歴史と理論から「効用」を読み解く (光文社新書) 大森 信 (著)より
脱・成長神話 歴史から見た日本経済のゆくえ 武田晴人(著)より
1からの経営史 (編著)宮本又郎・岡部桂司・平野恭平より