制服を着ている人の不可解な言動を見ていると、この人の会社は大丈夫かと思うことがあります。
制服を着たまま・・・
電車内で大きな声を出して電話をしている人
食事をしながら店員さんに文句を言っている人
会社の名前が入った車を乗ったまま・・・
路上駐車をして、ハンドルに足をかけて眠っている人
乱暴な運転をする人
制服を着たまま、また、社名が入った車で変な行動をとると会社の信用まで失うことには無関心なのです。
この人にとって職場は「世間」。しかし職場を離れればすぐに「社会」となり緊張感がなくなってしまうのでしょう。
私たちは日々、「社会」の中で生活をしています。
その「社会」の中で、会社、家族、学校など個々人独自の「世間」を創っていき、その中で日々の生活を送っています。
私たちはまさに「社会」と「世間」の中で生活をしているのです。
「世間」とは、自分にとって直接、利害関係がある世界。そして「社会」は、直接、自分とのしがらみがない世界。
仕事や学校等で人づきあいが広くなってくると「社会」が「世間」となり、次第にしがらみが多くなっていきます。
「世間」には強い関心はありますが「社会」には無関心。これが根底にあります。
一度、携帯をなくしたことがありますが、落としたかもしれない場所で見つかり、何と日本はいい国だと思ったものです。
ただ、周りに人がいたにも関わらず、私の携帯が落ちたままになっていた光景に少ながらず疑問を抱いたことも確かです。
別の日。電車に乗り、隣の人が降りた後に、スマホが椅子に置かれたままになっているのを見つけてしまったのです。変な緊張感が走りました。
持ち主はすでに電車から降り、電車が発車した後であったこともあり、さて、どうしたものかと近くの人を観察しながら過ごしていますと、皆、スマホの存在を気にしている感じがひしひしと感じられたのです。
降りる際、駅に持っていこうかとも思いましたが、もしかしたら、この人はスマホを盗っていくと思われるかもしれないと思い、結局、そのままにして電車を後にしたことがあります。今でもなんだかすっきりしない日でした。
電車の棚に置かれている書類も誰も手をつけず放っておかれています。
見ず知らずの携帯や書類は「社会」になります。私の携帯も近くにいた人からすれば「社会」だったので放っておかれたのです。なるほど。
それ以上かかわりたくない。だから触ろうとしない。
優先席に座る人が自分にとって「社会」の人は、空いていれば躊躇なく座ります。駅のエレベータもそうです。ベビーカーやご老人がいても全く無関心。
しかし、今、自分に小さい子供がいれば「世間」となり、自然と先に譲ります。年をとって自分の子供も大きくなると「社会」に変わっていきます。そして無関心となり電車の中のヘビーカーを邪魔者扱いします。罵声を浴びせることもあるほどです。
このように私たちは「世間」に対してはとても関心が高く、何とかして「世間」にしがみつこうとします。そこが自分の居場所だからどうしようもありません。そこでうまく振る舞わなければならないため、精神的なプレッシャーをかなり感じていくことになります。
直接、利害関係のない相手、つまり「社会」に対しては、全く逆で、無関心であり、しかも「社会」とどう対応していいかさえわからないこともあります。
よく日本人は政治に無関心と言われますが、それは多くの日本人にとって政治は「社会」だからに他ならないからです。
直接、私たちの生活にかかわってくると「社会」が「世間」に変わり、人から言われなくても積極的に参加します。選挙や原発も同じ。これは人として自然な行動で、非常時や人との付き合いもそうです。
自分の仕事に関係があると思う人に対しては、今後「世間」となる可能性があるため積極的にアプローチしますが、仕事に無関係であると感じた時は時間がもったいないと感じ、無関心を決め込む。
これが日本人なのです。こう考えれば、少しは人付き合いもすっきりしてくるかもしれませんが、やはり少しさびしい気もします。
ですから、採用や教育において、この「社会」と「世間」について、会社の考えなりをはっきりと伝えることがとても大事になってきます。
あまりにも「世間」が狭い人が多ければ、会社の信用はなくなってしまいますから。