事業を始めて大きく育てようと思えば、自分1人では出来ません。どうしてもたくさんの人が必要になります。そのため人を集めなければならないわけですが、
・人の集まり方
が問題です。前回、取り上げた項羽(こうう)は、上司を殺す、降参した敵を殺すなど、自分が思いどおりにならない者は廃除し、恐怖で人を支配して勢力を拡大していきました。
一方、項羽の宿敵である劉邦(りゅうほう)は、自然と人が集まってくる、大らかな人物だったようです。「十八史略」を読んでみましょう。
初めて秦の始皇帝を見たときの反応ですが、劉邦は労役で秦の国都である咸陽(かんよう)に行ったときに始皇帝の姿を見て、
「あぁ、大丈夫まさにかくの如くなるべし」(ああ、男ならばあんなふうにならねばなあ)と無邪気に憧れを抱いています。
一方、始皇帝の巡行を見物した項羽は「俺が取って代わってやる」と言ったとのこと。2人の性格の違いがこれだけでもハッキリと分かります。
劉邦が役人として囚人の護送を担当した際、あまりに囚人が脱走するのに困った劉邦が仕事を放棄し、囚人たちに向かって「どこへでも行け」と言ったところ、十数人が劉邦と行動を共にしたいと申し出てきました。好かれているのです。
劉邦が懐王の命で関中の地を秦から奪い取ったとき、関中の人々は秦のきびしい掟(おきて)に苦しんでいました。そこで劉邦はその地の長老や豪傑をことごとく召集して宣言します。
「法令は三か条のみとする。人を殺した者は死刑、人を傷つけた者、盗みをした者はそれぞれ罪に応じて罰する。その他の従来の秦の掟はすべて除き去る」
これを聞いた秦の民は大いに喜んだと言います。
前回も述べましたが、項羽が懐王を殺した際、劉邦は、
「項羽は天下が一致して擁立した義帝を追放し、殺した逆賊であり、我々は悪者を討伐する正義の軍だ」
と宣言し、人心を一気に掌握しました。人の心をつかむことが本当にうまかったのです。
項羽との戦いに勝った劉邦は、その勝因を人心掌握力に差があったと分析しています。
「作戦を陣幕の中でめぐらし、千里の外に勝利を決する腕前については、私は張良(ちょうりょう)に及ばない。国家を安らかに治め、人民を癒やし、兵糧を調達し、補給路を確保する腕前については、私は蕭何(しょうか)に及ばない。百万もの大軍を率い、必ず勝ちを収め、敵の城を奪取する腕前については、私は韓信(かんしん)に及ばない。この三人はいずれも傑物だ。私はその傑物をよく使いこなした。これが、私が天下を取った理由である。項羽にはたった一人、范増(はんぞう)という傑物がいたけれども、それさえ使いこなせなかった。これが、項羽が私にやられた理由である」
「孫子の兵法」には、
「戦い勝ち攻めて得るも、その功を修めざる者は凶なり。之(これ)を命(な)づけて費留(ひりゅう)と曰(い)う」(火攻篇)
(戦って勝ち、敵の城や領土を攻め取っても、その戦果を政治目的の達成に結びつけられないのではダメだ。これを浪費というのだ)
とありますが、項羽は浪費ばかりしていたのです。戦いに勝ち、領土を得、支配下の人員を増やしても、「その功を修めざる者」でした。
その点、劉邦はもともと、
・目的意識が明確にあった
と言えるでしょう。例えば関中を攻め取った際、「法令は三か条のみとする」と宣言し、すぐに現地の人の心を手中に収めました。戦いに勝っても、その後の政治がきちんと出来ないのでは意味がないのです。
戦争は政治目的を実現する手段である
という認識を持っていた、あるいはそのような戦略思考をもっている人間を部下とし、その部下の意見に耳を傾けたことが、劉邦の成功の要因です。
その根底には、始皇帝の姿を見て「ああ、男ならばあんなふうにならねばなあ」と素直に言える無邪気さ、人間としての大きさがありました。
ビジネスの世界で、私たちもつい項羽的な仕事の進め方をしがちですが、最後に勝つのは劉邦の側であることを忘れないようにしましょう。