「家族旅行か…。行きたいけど、また、お金がかかる…」
「なにか資格をとったほうがいいのかも知れない。でも、学ぶにしても先立つものが…」
「子供はカワイイけど、カネもかかるものだ…」
「飲み会かぁ…、今月はお金がキツいのに…」
などと、何につけても “お金がかかる” ことに、汲々としている人がいる。
だが、同僚をみると、家族旅行を楽しみ、けっこう仲間と飲みに出かける人がある。
そんな人を見ると、「きっと奥さんも働いているんだろう」とか、
「実家がいいんじゃないか? 家を買うにしても、親が頭金でも出してくれれば、大違いだものなぁ」
などと、ヨダレたらす。そんな人も少なくない。
一部の特別な人を除いて、誰だって、使えるお金には限りがある。
もっとはっきり言えば、家賃や住宅ローン、生活費、子供の教育費などを差し引けば、
自由に使えるお金はきわめて制限されている。これが、ごく普通の人生だ。
だからといって、いつも、「節約しなくちゃ」「老後のための貯金を…」という考えに凝り固まってしまえば、
それは、お金が目的化してしまったことを意味しており、
多少のお金が貯まったところで、人生はあまり楽しいものではないだろう。
伊藤忠商事の社長・会長を歴任された丹羽宇一郎さんは、望ましいビジネスマンの条件のひとつに、
≪「カネの匂い」がすることが望ましい≫と言っておられる。
「貧すれば鈍す」の言葉もあるように、お金に窮すると、ややもすると「心貧」におちいってしまうものだ。
また、お金は、本質的には使ってはじめて価値をもたらすものだ。
預金通帳の残高は、通帳に置いておく限り、たんなる数字の羅列でしかない。
そのお金を、自分なりの価値観で使いこなす。
そのときにはじめて、お金は生命を持つものだといってもよいのだと思う。
英国の随筆家フランシス・ベーコンは、
「金銭は肥料のようなものだ。ばら蒔かなければ役に立たない」
と言っている。
中堅の物流会社に勤務しているGさん。はっきり言って、決して給料はよくない。
だから、住まいは木造のアパートだ。
だが、Gさんはスノーボードにはまっており、スノボにはかなりのお金を使っている。
晩秋から五月の連休明けくらいまでの半年間、休日の度にどこかに出かけ、滑っている。
まだ二十代後半のGさんには、もちろん、そんな自覚も計算もないのだが、
Gさんはスノボにお金を使うことによって、生涯を支える人間関係を手に入れつつあるのだ。
まさに、「円は縁なり」。
Gさんは、生きたお金の使い方をしているのだといえる。