松下幸之助氏が亡くなられたのは、1989年4月。94歳の生涯だった。
亡くなられてすでに四半世紀も経過しているのに、
今なお「経営の神様」として、経済界に隠然たる影響力を持っておられる。
間違いなく、近代日本が得た最高の経営者の一人に挙げられるだろう。
94歳という長寿から、松下氏は健康に恵まれた人と錯覚されるかもしれないが、
実は氏は、その生涯を、病弱な身体と戦い抜いた人であった。
和歌山の長く続いた古い家柄であった松下家の、八番目の末っ子に生まれ、
兄が二人あったが、いずれも早くなくなっている。
氏自身も生来、身体が弱かった。
そのため、勤めに出る生活はそう長くは続けられないだろうという気持ちも、
起業の動機のひとつになったと伝えられる。
起業前は、大阪電灯という電気メーカーに勤めていた。
ここで、順風満帆の出世を遂げていくが、22歳で肺尖カタルで倒れる。
医者は、「仕事を辞め、空気の良いところで転地療養するように」と言ったが、
そんなことが許される境遇ではなかった松下青年は、
三日出勤して一日休むという《飛び石勤め》を願い出た。
この一日の休みに様々なことをじっくり考えたと、のちに氏は述懐している。
独立し最初に手掛けた商品が、改良ソケットであることは広く知られているが、
そのアイデアもこの「一日の休み」中に、ふっと頭に浮かんだものだったという。
その後、松下電器を世界的な企業に発展させた氏の、功績を知らぬ人はいない。
だが、その生涯が肺の持病との闘いで、
入退院の繰り返しであったことは、あまり知られていない。
「健康なのはなによりだ。
しかし、体が弱いからといって、悲しむことはない。
弱ければ弱いなりに、それに適したやり方がある。
いろいろと知恵を働かせる機会も生まれるし、
それで、人に負けない立派な仕事をやる遂げることもできる」
…松下幸之助語録には、こんな健康に関する言葉もある。
人には生まれつき背負ってきた運もある。
身体が丈夫か、そうでないかもそのひとつだ。
私は、生来、丈夫なほうに生まれつき、幸運だと思っていたが、
松下氏のような栄光や僥倖に恵まれているわけではない。
体が弱いことイコール不運だ、不幸だと言い切ってしまうのは、
運命をなめているといわれてもしかたない。
「無事これ名馬」という言葉があるが、
無事であれば、すべての馬が名馬だというわけではない。
世の中には、「無事ではない」けれど、名馬以上の誉れ高い生き方を
する人もあることを知っておきたい。