職制準拠の職能給・責任等級制賃金の仕組みは黎明期の本田技研の制度として、賃金管理研究所の創立者でもある故弥富賢之によって考案されました。
新規学卒として入社し、高い評価を受ける優秀社員(これをAモデル社員と言います)はその学歴に関わらず、23歳の昇給で等しくII等級16号に並ぶこととなり、翌年の昇給からは仕事力で貢献度を競い合う。優れた社員が学歴差を理由に不利にならない仕組みについて前回のコラムで説明しました。
しかし大きな夢を本田技研で実現しつつあった当時の本田宗一郎社長は賃金人事制度作りに一段の創意工夫を指示したという伝説が残っています。
「優れた生抜き社員は23歳の昇給で同じ等級号数に並ぶ仕組みはわかった。しかし、低学歴者の中にはそれ以上に並外れた人物がいてもおかしくない。大学を卒業するまで勉強し続けなければ使い物にならなかった君達エリートとは次元が違う話だが、誰よりも若くして入社し、賞賛に値する勤務成績を残し続ける真の実力社員がいたら、どのように登用し、仕事を委ねて行くのかね。答えを用意しておきなさい。」と当時の本田社長は人事院の給与局格付課長、公平局組合課長を歴任し、本田技研に三顧の礼で迎えられた弥富賢之になんとも皮肉な難題をつきつけました。まさに桁違いの人物・本田宗一郎社長当人から直接指摘された訳ですから、強気で自信に溢れていた当時の弥富賢之は悩みに悩んだことでしょう。そうした本田社長の思いを上手に制度に組み込んでいったのです。
できてみるとコロンブスの卵のような話ですが、それは評語A(優秀者)モデルの上に評語S(超優秀者)を想定することだったのです。最低年齢(労働基準法56条)で初々しい新人が入社したとします。最初こそ評語B=4号昇給となりますが、次の年は優秀と評価され評語A=5号昇給し、その次の年からは抜群と評価され評語S=6号昇給を続けたとします。(これをSモデルと呼びます)
I等級の仕事、パートでもできる程度の仕事を並外れた人物が担当する訳ですから、仕事ぶりでより高く評価されることはさほど難しくないしょう。20歳の時にはAモデル社員(II-1に)と同時に昇格しますが、II等級のより高い号数(II-4)位置に昇格します。
そして、その後も抜群と評価されて、頼りになるII等級社員として高い勤務成績を積み重ね、生抜きのSモデル社員は誰よりも早く、24歳の若さでIII等級(上級職)に昇格します。
この職制準拠の賃金制度における出世頭が誰なのかと聞かれれば、それは本田さんの意思を反映させている訳ですから、たとえ低学歴で入社したとしても、一番努力し、頑張っている並外れた実力者・評語Sを採り続けるスーパー社員が出世頭なのです。
いつの世であっても、学歴には関わりなく魅力あふれる大きな人物はいらっしゃいます。そういう人物が仕事力で評価され、30年後には万人が認める大社長になっていてもおかしくないどころか、制度としてもっとも合理的だと言うことです。
誰もが認める実力社長をリストアップしてみたとき、並外れた社長の仕事力、実現力と学歴の有無とには相関関係がないことが多くの事例からも分かります。それこそが職制準拠の職能給・責任等級制の賃金制度のフィロソフィーなのです。
責任等級制の賃金制度は創業10年ほどの本田技研で本田宗一郎の意を汲んで作られましたから、そこには人を納得させる伝説(レジェンド)があるのです。私どもの会長はそういう意味で言うと、本田技研の大発展の基礎作りに貢献した人物の一人と言えるでしょう。
ジュノーという高級スクーターの失敗による経営危機の後に、現在まで続くメガヒットバイク・スーパーカブが誕生し、奇跡の好循環が始まりました。2輪メーカーとしての地位を固めた本田技研本田技研は次に4輪メーカーへ、大きな夢を実現していきました。
私ども賃金管理研究所の弥富賢之会長(2008年の4月に他界)は、そのころを回想して、「私にとって人生の最大の幸せは本田宗一郎にめぐり合えたことだ。本田宗一郎のすごいところは、会社が滝登りの勢いで急成長していったときも、会社の成長の速さと重なるように、社長としての器を無理なく大きくできた人物だった」。と楽しそうに話してくれていました。